日本後紀

六国史の第3作目で、桓武天皇から淳和天皇までの時代を記録した正史は何か?
カテゴリ:
重要度
★★

日本後紀 (にほんこうき)

840年完成

【概説】
平安時代前期に編纂された、日本で3番目にあたる勅撰の正史。六国史の第3作目であり、桓武天皇から淳和天皇にいたる4代52年間の歴史を漢文の編年体で記録した史書である。

編纂の経緯と六国史における位置づけ

『日本後紀』は、嵯峨天皇の命によって編纂が開始され、数代にわたる編纂作業を経て、仁明天皇の治世である承和7年(840年)に完成した。主たる編纂者には、薬子の変(平城太上天皇の変)ののちに蔵人頭として活躍した藤原冬嗣や、のちに左大臣となる藤原緒嗣らが名を連ねている。

本作は、先行する『日本書紀』『続日本紀』に続く「六国史」の第3作目にあたる。収録範囲は、桓武天皇の即位年である延暦元年(782年)から、淳和天皇の譲位年である天長10年(833年)までの52年間である。この時代は、律令制が弛緩し始める中で朝廷が様々な政治改革や新都建設、東北地方への蝦夷征討を進めた激動期であり、その詳細な記録として極めて重要な位置を占める。

史料的価値と「徳政相論」の記録

『日本後紀』の記述の中で、歴史学的に最も重要視されるものの一つが、延暦24年(805年)に戦わされた徳政相論(徳政論争)の記録である。これは、桓武天皇が推進していた「軍事(蝦夷征討)」と「造作(平安京の造営)」という二大事業の継続について、藤原緒嗣と菅野真道が天皇の御前で激論を交わしたものである。

藤原緒嗣は「天下が疲弊している原因はこの二つである」として両事業の中止を主張し、桓武天皇はこの意見を容れて事業を中止させた。当時の朝廷が抱えていた財政的・社会的な限界を示すこの歴史的事件は、『日本後紀』の克明な記録によって現代に伝えられている。

散逸の歴史と復元への努力

完成当時は全40巻に及ぶ大著であった『日本後紀』であるが、平安中期以降の度重なる火災や戦乱などによって大部分が散逸してしまった。現在、オリジナルの状態で残されているのは、全40巻のうちわずか10巻分(巻5、8、12、13、20、24、25、28、39、40)にすぎない。

そのため、失われた大部分の記述については、後世に編纂された『類聚国史』や『日本紀略』、あるいは『官社割録』といった他の文献に引用された抄録(抜き書き)を繋ぎ合わせることで、内容の復元・研究が進められている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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