引揚げ
【概説】
敗戦後、旧植民地や占領地などの海外に居住していた日本の民間人(引揚者)や軍人・軍属が日本本土へ帰国した歴史的出来事。約300万人以上の民間人が事実上すべての財産を喪失して帰還を余儀なくされ、帝国日本の終焉と戦後社会の形成に多大な影響を与えた。
帝国崩壊に伴う未曾有の民族大移動
1945(昭和20)年8月、日本がポツダム宣言を受諾して敗戦を迎えたことにより、大日本帝国は崩壊し、台湾や朝鮮半島などの旧植民地、および中国大陸、東南アジア、南洋群島などの占領地をすべて喪失した。当時、海外には軍人・軍属が約330万人、民間人が約320万人、合計約650万人もの日本人が取り残されていた。彼らを日本本土(内地)へ帰還させるという、人類史上でも類を見ない規模の民族大移動が開始された。なお、軍人・軍属の帰還を「復員」、民間人の帰還を「引揚げ」と呼んで区別するが、両者はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理下において並行して進められた。
地域によって異なる帰還の過酷さ
引揚げの状況は、居住していた地域や支配権を握った連合国の軍隊によって大きく異なった。アメリカ軍の支配下に入った南洋群島やフィリピン、あるいは中華民国(国民党)政府の統治下に入った台湾などからの引揚げは、比較的早期に秩序立って行われた。しかし、GHQの指令により私有財産の持ち出しは現金1000円(のちに制限緩和)と携帯できる手荷物程度に厳しく制限されたため、彼らは事実上無一文での帰国を余儀なくされた。
最も悲惨を極めたのは、満州(中国東北部)や樺太・千島列島からの引揚げである。1945年8月9日のソ連対日参戦により現地は大混乱に陥り、関東軍が事実上崩壊するなか、置き去りにされた民間人は自力での逃避行を強いられた。酷寒のなかでの飢餓や疫病、ソ連軍の暴行、現地民の襲撃などにより、満州だけでも約20万人以上の日本人が命を落としたとされる。また、中国大陸からの引揚げも、国共内戦(国民党軍と共産党軍の武力衝突)の激化に巻き込まれるなど、極めて困難な道のりであった。
引揚港の指定と受け入れ体制
日本政府はGHQの指令に基づき、厚生省の外局として引揚援護庁(のちに援護局)を設置し、全国の主要な港湾を引揚港として指定した。博多、佐世保、浦賀、函館、舞鶴などがその代表である。特に京都府の舞鶴港は、中国大陸からの帰還や、ソ連によるシベリア抑留からの帰還港として1958(昭和33)年まで引揚船を受け入れ続け、「岸壁の母」の舞台としても広く知られている。
引揚港においては、引揚者の健康管理と同時に、国内への伝染病の流入を防ぐための厳格な水際対策が講じられた。特にコレラや発疹チフスなどの持ち込みを警戒し、港では入念な検疫が行われ、引揚者全員に対してDDT(殺虫剤)の散布が強制的に実施された。
戦後日本社会への影響と残された課題
過酷な状況を乗り越えて本土の土を踏んだ引揚者たちを待ち受けていたのは、空襲で焼け野原となった故郷と深刻な食糧難であった。海外で築いた生活基盤の一切を失っていた彼らは、住居や就職の確保に極度に苦しんだ。さらに、内地の人々との間に意識の溝が生じ、「引揚者」としての偏見や差別に晒されるケースも少なくなかった。
また、引揚げの混乱は戦後長きにわたって未解決の課題を残した。満州での逃避行のさなか、肉親と死別・離れ離れになったり、現地人に預けられたりした子どもたちは中国残留孤児(または残留婦人)となり、1980年代以降になってようやく本格的な肉親探しと帰国事業が開始された。また、ソ連によって不当に連行されたシベリア抑留者の帰還問題も、冷戦構造のなかで長期化した。「引揚げ」は単なる帰国事業ではなく、帝国日本の膨張と崩壊のツケを民衆が背負わされた、戦後日本社会における深い傷跡と言える。