中国残留日本人
【概説】
1945年の太平洋戦争敗戦時、旧満州(中国東北部)や内モンゴルからの引き揚げの混乱の中で取り残され、現地の中国人養父母に育てられた日本人孤児や、現地に留まらざるを得なかった日本人女性などの総称。国策によって進められた「満蒙開拓」の破綻が生んだ、第二次世界大戦における日本の「戦後処理」に関わる重大な人道的課題の一つ。
満蒙開拓とソ連参戦――悲劇の背景
昭和初期、日本政府は満州(現在の中国東北部)への農業移民を国策として強力に推進し、約27万人におよぶ満蒙開拓団を送り込んだ。しかし、1945年8月9日のソ連軍の満州侵攻に際し、現地開拓民の保護にあたるべき関東軍(主力部隊)は、開拓民に侵攻の事実を知らせず、民間人を置き去りにして先に後退・撤退した。これにより、開拓民は苛烈な戦火の中に取り残され、飢餓や疫病、現地住民による襲撃、集団自決などの凄惨な避難行(逃避行)を余儀なくされた。この極限状態の混乱の中で、多くの子供たちが家族と離死別することとなった。
残留孤児と残留婦人の実態
引き揚げの混乱期に親と死別し、あるいは生き延びさせるために中国人の養父母に託された13歳未満の子供たちは中国残留孤児と呼ばれる。一方、自力での避難や帰国が困難となり、生存のために現地中国人男性との結婚などを余儀なくされた、当時13歳以上の女性たちは中国残留婦人(中国残留女性)と位置づけられる。彼らの多くは、激しい反日感情が残る戦後の中国社会において、日本人としてのアイデンティティを隠しながら、過酷な生活環境を生き抜くこととなった。
日中国交正常化と帰国・定着支援の課題
終戦後、長らく日本と中華人民共和国との間に国交がなかったため、残留日本人の存在は顧みられなかった。1972年の日中国交正常化以降、ようやく彼らの全容解明に向けた動きが始まり、1981年から厚生省(当時)による「訪日調査」が本格化した。しかし、戸籍の喪失や記憶の薄れ、中国側の養父母への配慮などから身元判明は困難を極めた。さらに、帰国を果たした後も、日本語の不習得や日中の文化摩擦、社会保障制度の不備などから、日本社会への定着において深刻な孤立や貧困に直面した。これに対し、2000年代以降、国に対する国家賠償請求訴訟が各地で起こされ、2007年には支援法が改正されて生活支援金の支給などが定められたが、彼らが抱えた戦争の傷跡と戦後処理の遅れは、今なお日本の歴史的課題として残されている。