寺内正毅内閣 (てらうちまさたけないかく)
【概説】
1916年(大正5年)、第2次大隈重信内閣の後を受けて成立した、長州閥の陸軍大将・寺内正毅を首相とする内閣。政党を基盤としない官僚・軍人を中心とした超然内閣であり、第一次世界大戦下の外交やシベリア出兵を主導したが、大戦景気に伴う物価高騰と米騒動を機に総辞職した。
組閣の経緯と「非立憲(ビリケン)内閣」
1916年(大正5年)10月、第2次大隈重信内閣が退陣したのち、元老・山県有朋の強い推挙により、初代朝鮮総督を務めていた陸軍大将の寺内正毅に大命が降下して成立した。当時の衆議院における多数党であった憲政会(立憲同志会を中心に結成された政党)を完全に無視する形で組閣されたため、政党勢力やジャーナリズムからは時代逆行的な藩閥政治の復活として強い反発を招いた。
寺内自身が頭の尖った独特の風貌をしていたこと、そして政党を排除した「非立憲的」な組閣であったことから、当時流行していたアメリカ発祥の幸福の神様「ビリケン」になぞらえ、「非立憲(ビリケン)内閣」と激しく揶揄された。しかし、寺内内閣は立憲政友会(原敬総裁)を閣外協力という形で抱き込み、実質的に政友会寄りの政策を展開することで議会運営を乗り切ろうと画策した。
第一次世界大戦下の積極外交と西原借款
寺内内閣の存続期間は、まさに第一次世界大戦の最中であった。大隈前内閣が対華21カ条の要求などで著しく悪化させた日中関係の修復を図るため、寺内内閣は首相の私設秘書であった西原亀三を通じて、中国の段祺瑞(だんきずい)政権に対して巨額の借款(西原借款)を与えた。これは同政権を資金面で支援することで、中国における日本の権益拡大と影響力強化を目論んだものであった。
また、1917年(大正6年)にはアメリカとの間に石井・ランシング協定を締結した。これは、中国における日本の「特殊権益」をアメリカに承認させる一方で、日本も中国の領土保全と門戸開放・機会均等を再確認したものであり、太平洋地域における日米間の対立を一時的に緩和させつつ、帝国主義的な権益確保を目指した外交成果であった。
ロシア革命とシベリア出兵の決断
1917年、ロシア革命が勃発し、翌年に史上初の社会主義政権であるソヴィエト政権が誕生すると、資本主義列強は社会主義革命の波及を恐れて干渉戦争を開始した。寺内内閣も同盟国であるイギリスやフランスからの強い要請、そしてアメリカの提議を受け、1918年(大正7年)8月にシベリア出兵を宣言した。
表向きは「シベリアに取り残されたチェコ・スロヴァキア軍の救出」を名目としたが、その実態は革命政権への武力干渉と、東部シベリアや北満州における日本の勢力圏拡大を企図したものであった。日本は列強の中で突出して最大規模となる7万人以上の兵力を投入したが、パルチザンの激しい抵抗に遭い目ぼしい成果を得られず、いたずらに戦費と人命を消耗する結果となった。
米騒動の勃発と内閣の崩壊
寺内内閣の致命傷となったのは、シベリア出兵に直接的に起因する国内の社会不安であった。大戦景気によって日本経済は未曾有の好況(成金の出現)を呈していたが、同時に深刻なインフレーションが進行し、労働者や農民の実質賃金は低下していた。そこへシベリア出兵に向けた軍需米の買い付けを見越した米穀商や地主による米の買い占め・売り惜しみが発生し、米価が異常な暴騰を見せた。
1918年(大正7年)7月、富山県魚津の漁民の妻たちによる米の県外移出阻止運動を皮切りに、米騒動が勃発した。この騒動は瞬く間に全国の都市や農村、炭鉱へと波及し、数百万人規模の民衆運動へと発展した。寺内内閣はこれに対して軍隊を出動させて武力鎮圧を図り、さらに新聞報道を厳しく統制する強硬策に出たが、これがかえって民衆の怒りを増幅させ、各方面から激しい非難を浴びた。
結果として、寺内内閣は事態を収拾しきれず、1918年9月に総辞職を余儀なくされた。寺内内閣の崩壊は、軍人や官僚主導による非立憲的な超然政治の限界を決定的に露呈させた事件であった。これにより、日本政治は民意を反映した政党内閣を求める声を無視できなくなり、続く原敬内閣(本格的政党内閣)の誕生、ひいては大正デモクラシーの奔流へと繋がる歴史的な転換点となったのである。