段祺瑞

袁世凱の死後、中国の北京政府の実権を握り、寺内内閣から巨額の経済援助を引き出した軍閥の指導者は誰か?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
段祺瑞(Wikipedia)

段祺瑞 (だんきずい)

1865〜1936

【概説】
近代中国の清末から民国期にかけて活躍した軍人・政治家であり、北洋軍閥の安徽派(あんきは)を率いた指導者。袁世凱の死後に北京政府の実権を掌握し、日本の寺内正毅内閣から巨額の「西原借款」を受け取って自己の権力基盤強化と中国武力統一を企てた。しかし、この露骨な親日政策は中国国民の激しい反発を招き、五四運動などの排日愛国運動を誘発する一因となった。

袁世凱没後の北京政府掌握と「安徽派」の確立

段祺瑞は、清末に袁世凱が創設した近代陸軍(北洋軍)の最高幹部の一人として頭角を現した。1912年に中華民国が成立し、袁世凱が臨時大総統(のちに大総統)に就任すると、陸軍総長などの要職を歴任して軍部内に確固たる勢力を築いた。

1916年、大皇帝への即位を企てた袁世凱が内外の反発の中で急死すると、北洋軍閥は分裂の時代を迎える。段祺瑞は自身の出身地にちなむ安徽派(あんきは)を組織し、直隷派や奉天派といった他の軍閥と北京政府の主導権を激しく争った。段は国務総理などの要職に就き、議会や臨時約法(憲法に準ずるもの)を無視した独裁的な政治手法で中国の武力統一を目指した。

寺内正毅内閣の対中政策と「西原借款」

日本史において段祺瑞の名が重要視されるのは、第一次世界大戦期における日本の対中外交、とりわけ寺内正毅内閣の政策と深く結びついているからである。前政権の大隈重信内閣が1915年に突きつけた「対華二十一カ条の要求」は、中国国民の激しい排日運動を呼び起こし、国際的にも孤立を招く結果となった。これを受けた寺内内閣は、表面的な軍事的・政治的圧力を控え、経済支援を通じて親日派政権を育成し、間接的に日本の利権を拡大する方針へと転換した。

この方針のもと、寺内首相の私設使節である西原亀三が北京に派遣され、段祺瑞政権との間で総額1億4500万円にのぼる巨額の政治資金援助、いわゆる西原借款(1917〜1918年)が結ばれた。名目は鉱山や鉄道開発、通信網整備などのための借款であったが、その実態は段祺瑞が南方の革命派(孫文ら)を制圧し、自らの独裁政権を維持するための軍事資金として流用された。さらに日本は、1918年に段政権との間で「日中共同防敵軍事協定」を結び、中国国内への日本軍駐留や権益確保の足がかりを作った。

借款の破綻と中国ナショナリズムの爆発

西原借款を背景に強気となった段祺瑞は、第一次世界大戦への参戦を強行してドイツ権益(山東省の利権など)の回収を図るとともに、南方武力統一を進めた。しかし、日本への過度な依存と独裁的な政治姿勢は、中国国内の知識人や民衆から「売国奴」として激しく非難された。

第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)において、山東省の旧ドイツ権益が中国に返還されず、日本へ譲渡されることが決定すると、北京の学生たちを中心に激しい反日・反政府運動である五四運動が勃発した。段祺瑞政権の親日姿勢に対する国民の不満が一気に爆発したのである。これによって段は政治的窮地に立たされ、さらに軍閥間の内戦(安直戦争など)に敗れて失脚した。

日本側にとっても、段祺瑞への援助は失敗に終わった。提供された莫大な借款は、段祺瑞の失脚によって担保(鉱山や森林の利権など)が有名無実化し、そのほとんどが回収不能となって日本の国家財政に深刻な打撃を与えた。段祺瑞という「特定の個人・軍閥」に肩入れした日本の工作は、かえって中国の組織的な抗日ナショナリズムを覚醒・過熱させる歴史的契機となった。

支那事変の回想 (1964年)

当時の軍事外交の最前線にいた当事者が綴る、緊迫した情勢と実体験を克明に記録した極めて貴重な歴史的証言。

中国近代の軍閥列伝

混迷を極めた近代中国を支配し、激動の歴史を動かした群雄割拠の軍閥たちの実像を浮き彫りにする歴史解説書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 幕末の物価高騰を防ぐため、幕府が江戸の問屋を必ず経由させるよう命じた5品目のうち、反物などの衣類を指す言葉は何か?
Q. 光明皇后が悲田院とともに平城京に設置した、貧しい病人に無料で薬を施し治療を行った医療施設は何か?
Q. 倭国が朝鮮半島の加耶(任那)諸国に影響力を行使するため、現地に設置したとされる外交・軍事の拠点を日本の史書では何と呼んでいるか?