天王寺屋 (てんのうじや)
【概説】
江戸時代の大坂において、金融市場の頂点に君臨した代表的な豪商。幕府から公認された十人両替の筆頭格として、金銀の兌換や公金の管理、諸藩への融資(大名貸)を行い、大坂の経済秩序を主導した。
十人両替の成立と天王寺屋の台頭
江戸時代、日本国内では東日本を中心に金貨が、西日本を中心に銀貨が流通する「金御用・銀御用」の割拠状態にあった。この異なる通貨制度を結びつけ、三貨(金・銀・銭)の円滑な両替を行う必要性から発展したのが大坂の本両替(ほんりょうがえ)である。1670年(寛文10年)、江戸幕府は大坂の有力な本両替商10軒を指定し、両替商全体の統制や幕府公金の送金などを義務付ける「十人両替」の制度を創設した。天王寺屋(主に五兵衛を通称とする)はこの十人両替の筆頭として、大坂金融界における絶大な特権と地位を確立することとなった。
大名貸の展開と幕政への関与
天王寺屋をはじめとする大坂の豪商たちの主たる業務の一つが、全国の諸藩に対する融資、すなわち「大名貸(だいみょうがし)」であった。当時、多くの藩は大坂の蔵屋敷に領内の特産物(米など)を運び込んで売却し現金(銀)を得ていたが、慢性的赤字に苦しむ藩が多かった。天王寺屋はこれらの藩に対して蔵米を担保に前貸しを行い、諸藩の財政を実質的に支えた。さらに、幕府の資金調達機関としても重きをなし、幕府の財政難の際には巨額の「御用金」を調達するなど、国家的な金融機能をも担う存在であった。
明治維新の激動と豪商の終焉
江戸時代を通じて巨大な富を誇った天王寺屋であったが、幕末の政情不安と、それに続く明治維新の変革の中で致命的な打撃を受けることとなる。新政府が断行した廃藩置県(1871年)に伴う藩債処分により、全国の諸藩に対して貸し付けていた膨大な「大名貸」の債権の多くが事実上切り捨てられ、回収不能となった。また、新貨条例による金本位制度への移行や国立銀行の設立といった急速な近代金融制度への転換に対応できず、鴻池家など一部の豪商が近代資本家へと脱皮したのとは対照的に、天王寺屋は没落の途をたどることとなった。