大日本産業報国会 (だいにっぽんさんぎょうほうこくかい)
【概説】
1940(昭和15)年、日中戦争下で国家総力戦体制を構築するため、各職場の産業報国会を統合して結成された全国的な労働統制の中央組織。既存の労働組合を解散に追い込み、労使一体となって国家に奉仕することを名目に労働者の徹底した動員と生産増強を図った。
産業報国運動の背景と起源
1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、長期化する戦争を支えるために国家総力戦体制の構築が急務となった。戦時下において労働争議(ストライキ)は軍需品などの生産を著しく阻害する要因と見なされたため、政府や財界は労使の対立を否定し、労使が一体となって国家に奉仕するという理念を掲げた。これが産業報国運動である。
1938年には政府(内務省・厚生省)の主導のもと「産業報国連盟」が結成され、各企業・工場に「産業報国会」が設置されていった。こうした国家権力による強力な労働統合の動きに対し、戦前から存在していた労働組合は次々と自主解散に追い込まれ、右派の労働組合の中央組織であった日本労働総同盟も1940年に解散を余儀なくされた。
大日本産業報国会の結成と組織構造
1940(昭和15)年、第2次近衛文麿内閣のもとで、強力な政治指導体制の確立を目指す新体制運動が展開された。この運動によってすべての政党が解散して大政翼賛会へと統合されたのに呼応し、経済・労働分野の新体制として同年11月に結成されたのが大日本産業報国会である。
これにより、全国の各職場に存在していた産業報国会が中央集権的に統合され、内務・厚生両省の官僚や警察による強力な指導下に入った。組織は中央本部のもとに道府県支部があり、さらにその下に各職場の単位産業報国会が置かれるというピラミッド型の構造を持っていた。事業主を会長とし、職工から事務員に至るまで全従業員を強制的に加入させることで、事実上、労働者の自主的な団結権や団体交渉権は完全に剥奪された。
戦時労働統制の実態
大日本産業報国会の最大の目的は、「皇国勤労観」の徹底に基づく生産増強と労働規律の維持であった。労働者は「産業戦士」と称揚されたが、その実態は極めて過酷なものであった。労働争議の禁止はもちろんのこと、長時間の重労働が日常化し、軍需産業への労働力の強制的な配置転換(国民徴用令など)も推進された。
また、大日本産業報国会は単なる労働統制機関にとどまらず、生活必需品の配給や職場での防空訓練、さらには労働者の思想教化に至るまで、戦時下の国民生活の隅々にまで国家の統制を行き渡らせる末端組織としての役割も担っていた。
敗戦による解散と戦後日本への影響
1945(昭和20)年8月の太平洋戦争敗戦後、日本の非軍事化と民主化を進めるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により、労働組合の結成が奨励された。これを受け、大日本産業報国会は同年9月に解散し、日本の労働運動は再び活気を取り戻すこととなった。
しかし、大日本産業報国会が戦後日本に全く影響を残さなかったわけではない。戦後の日本における労働組合の多くは、欧米のような職業別・産業別組合ではなく、一つの企業ごとに全従業員を包摂する企業別組合という形態をとった。この特徴は、事業所単位で事務職・現場労働者の身分差をなくし、全員を一つの組織に編成した産業報国会の枠組みが、戦後そのまま労働組合の基盤として転用されたことに起因するという見方が、現在の日本史研究や労働史研究において有力視されている。