大学

重要度
★★

大学

7世紀末〜11世紀頃

【概説】
古代の律令制下において、官僚を養成するために都(中央)に置かれた国立の最高教育機関。式部省の管轄下に置かれ、主に貴族や実務官人の子弟を対象に儒学や法律、歴史などの専門教育を施した。地方の各国に設置された「国学」と対をなし、日本の初期官僚制を支える人材供給源としての役割を担った。

律令体制と大学の創設

大化の改新以降、日本は唐の制度に倣った中央集権的な律令国家の建設を進めた。その中で、複雑化する行政実務を担う知識や実務能力を持つ官僚の育成が不可欠となり、その中核機関として中央に大学(大学寮)が、地方に国学が設置された。制度としての明確な確立は大宝律令(701年)を待つが、その前段階として天智天皇期の「学職」や天武・持統期の教育制度が存在したと考えられている。

大学の入学資格は原則として、五位以上の貴族の子弟、および文筆実務を担ってきた東西の史(ふひと)などの官人の子弟に限定されていた。これは、一定以上の身分を持つ層を対象に、国家を主導するエリート官僚を再生産するシステムであったことを意味している。これに対し、地方の国学は主に郡司などの在庁官人の子弟を対象としていた。

多様な学科とカリキュラムの変遷

大学では、当初は儒学を講じる明経道(みょうぎょうどう)が最重視され、経典である『論語』や『孝経』などが必須の教養とされた。しかし、律令国家の進展や貴族文化の発達に伴い、次第に学習内容が専門分化していった。具体的には、法律を学ぶ明法道(みょうほうどう)、租税や実務的な計算を扱う算道(さんどう)、そして中国の歴史や漢詩文を学ぶ紀伝道(きでんどう、後に文章道とも呼ばれる)などが成立した。

特に平安時代初期の弘仁・貞観文化期には、漢詩文の作成能力や中国の歴史知識が官僚の教養として極めて重視されたため、紀伝道が明経道を凌いで学問の主流へと躍り出た。学生たちは学問に励み、式部省が実施する厳しい官僚登用試験(省試)の合格を目指した。

大学別曹の台頭と大学の形骸化

平安時代中期に入ると、律令制の弛緩に伴い大学のあり方も大きく変容した。有力貴族の子弟は、試験を経ずとも親の位階に応じて一定の官位を得られる蔭位(おんい)の制の恩恵を強く受けるようになり、大学での厳しい学問に頼る必要性が薄れていった。

さらに、有力な貴族たちは一族の子弟を大学に通わせるための私的な寄宿宿舎・学習施設として、大学別曹(だいがくべっそう)を設置するようになった。和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院などが代表例である。これらは次第に大学の付属機関として公認されたが、結果として学問の私物化や学閥化を招くこととなった。やがて各学問(家学)の固定化や特定の氏族による世襲化(明経道の清原氏・中原氏、明法道の坂上氏など)が進むと、国立教育機関としての大学は次第に衰退し、名目的な存在へと形骸化していった。

律令国家と東アジア (日本の対外関係 2)

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 壬申の乱に勝利した天武天皇が、近江を捨てて再び飛鳥の地に造営し、持統天皇の代まで続いた宮の名称は何か?
Q. 律令制において、天皇の特別な思召し(恩恵)によって、皇族や貴族などに臨時で下賜された田地を何というか?
Q. 壬申の乱の勝利者であり、八色の姓の制定や富本銭の鋳造など、天皇の権力を絶対的なものとする中央集権化を進めた天皇は誰か?