前野良沢 (まえのりょうたく)
【概説】
江戸時代中期から後期の豊前国中津藩医であり、日本における蘭学の開拓者の一人。杉田玄白らとともに西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳して『解体新書』を完成させる際、語学の天才として翻訳作業の中心を担ったが、内容の不完全さを理由に自らの名を訳書に載せなかったことで知られる。
蘭学への傾倒と長崎遊学
前野良沢は享保8(1723)年、江戸に生まれた。のちに豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医であった前野家の養子となり、同藩の藩医として仕えることとなる。良沢が学問への情熱を本格的に燃やし始めたのは中年期に入ってからであった。40代後半になってから、江戸で蘭学の先駆者である青木昆陽にオランダ語を学び始めた。
さらに語学の知識を深めるため、藩主の許可を得て明和7(1770)年に長崎へ遊学する。長崎ではオランダ通詞の吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)らに師事してオランダ語を磨き、この時、西洋の医学書である『ターヘル・アナトミア』(ドイツ人医師クルムスが著した解剖書のオランダ語訳版)などを入手して江戸へ帰還した。
小塚原の腑分けと『解体新書』の翻訳
明和8(1771)年、良沢の人生を決定づける出来事が起こる。同僚の医師である杉田玄白、中川淳庵らとともに、江戸の小塚原(こづかっぱら)の刑場にて死刑囚の腑分け(解剖)を見学する機会を得たのである。彼らは持参した『ターヘル・アナトミア』の解剖図と実際の臓器を比較し、その極めて正確な描写に驚嘆した。
西洋医学の優位性を痛感した彼らは、翌日から築地の中津藩中屋敷にあった良沢の役宅に集まり、『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業を開始した。当時、オランダ語の辞書は存在せず、翻訳は文字通り暗号解読のような困難を極めた。その中で、長崎遊学の経験がありグループ内で最も語学力に長けていた良沢が「盟主」となり、翻訳作業の中心的な役割を果たした。
名を残さなかった「蘭学の開祖」
約3年半の苦闘の末、安永3(1774)年に翻訳本は完成し、『解体新書』として刊行された。これは日本で初めての本格的な西洋医学書の翻訳であり、日本の医学および科学史において画期的な出来事であった。しかし、出版された『解体新書』の著者欄に前野良沢の名は記されていなかった。
学問に対して非常に厳格で完全主義者であった良沢は、「現在の翻訳にはまだ誤りや不明な点が多く、このまま世に出すことは学者の良心が許さない」として出版に反対した。一方、杉田玄白は「多少の誤りがあっても、まずは世に西洋医学の卓越性を知らせ、後進の奮起を促すことが重要だ」と考え、出版を強行したのである。そのため、良沢は訳書に自らの名を連ねることを頑なに辞退した。
晩年と後世への影響
『解体新書』の刊行後も、良沢の学問への情熱が衰えることはなかった。彼は自らを「蘭化」(オランダの化け物)と号し、医学にとどまらず、オランダ語の語学研究や西洋の歴史・地理など幅広い分野の研究に没頭した。その成果は『蘭語訳撰』などの語学書として結実している。
また、良沢の真摯な学問的態度は、のちに江戸の蘭学の中心人物となる大槻玄沢(おおつきげんたく)ら優れた後進を育てることにつながった。大槻玄沢の「玄沢」という名は、杉田玄白の「玄」と前野良沢の「沢」を一字ずつもらい受けたものである。表舞台で名声を得ることは好まなかった良沢だが、彼の厳格な学問的探究心こそが、その後の日本における蘭学発展の確固たる基礎を築いたと言える。