大友皇子

重要度
★★

大友皇子 (おおとものおうじ)

648年〜672年

【概説】
天智天皇の長男であり、近江朝廷において史上初の太政大臣に任じられた飛鳥時代の皇族。父の崩御後、皇位継承をめぐって叔父の大海人皇子(のちの天武天皇)と激突した「壬申の乱」に敗れ、自害を遂げた。明治時代になって「弘文天皇」の諡号が贈られ、第39代天皇として公認された。

近江朝廷の成立と初代太政大臣への登用

大友皇子は、中大兄皇子(のちの天智天皇)が伊賀采女(いがのうねめ)であった宅子娘(やかこのいらつめ)との間に設けた長男である。母の出自が地方豪族(采女)と低かったことは、当時の皇族の婚姻・皇位継承の慣習において本来は圧倒的な不利を意味していた。しかし、大友皇子は幼少期から学識に優れ、天智天皇から深く寵愛されたことで、急速に政治の表舞台へと引き上げられることとなる。

天智天皇10年(671年)、天智天皇は冠位二十六階を定め、大友皇子を日本史上初とされる太政大臣(太政官の最高官職)に任命した。これは、天智天皇が強力に進めていた中央集権的な律令国家建設の一環であり、それまでの有力氏族(豪族)を中心とする政治体制から、官僚制的な統治機構へと移行するための象徴的な人事であった。天智天皇は事実上、大友皇子を自らの後継者として定めたのであるが、この強引な後継者指名は、それまで有力な次期皇位継承候補と目されていた天智の弟・大海人皇子との間に決定的な亀裂を生じさせることとなった。

古代最大の内乱「壬申の乱」と悲劇的な敗北

天智天皇が崩御したのち、大友皇子率いる近江朝廷と、吉野に隠棲したのち挙兵した大海人皇子との間で、皇位を巡る緊張が一気に高まった。672年、古代日本最大の内乱である壬申の乱が勃発する。

大友皇子は近江朝廷を擁して諸豪族に動員をかけたが、朝廷内部の足並みは揃わず、動員は遅れた。これに対して大海人皇子側は、東国(美濃や伊勢など)の軍事力を迅速に掌握し、戦略的な優位を確保した。近江朝廷軍は各地で敗退を重ね、最終的に大友皇子自らが前線に近い瀬田川の戦いで指揮を執るものの、大海人軍の猛攻の前に大敗を喫した。大友皇子は逃れて山前(やまさき、現在の京都府山崎周辺、あるいは滋賀県大津市内とされる)にて首を吊って自害した。享年25。この大友皇子の敗北により近江朝廷は完全に崩壊し、勝者となった大海人皇子は天武天皇として即位し、天皇中心の中央集権体制を一気に加速させていくこととなる。

後世における評価と「弘文天皇」への追諡

大友皇子は、壬申の乱での敗北によって長らく「悲劇の皇太子」あるいは「逆臣」に近い扱いを受けており、歴代の天皇の一代としては数えられていなかった。しかし、江戸時代の中期以降、水戸学などの儒学的な歴史観において、「天智天皇の正式な後継者として即位、あるいは政務を執っていた」とする「大友皇子即位説」が強く支持されるようになった。

明治維新を経て、天皇中心の国家体制(近代天皇制)が整備される中で、国家的な正統性を整理する必要が生じた。その結果、明治3年(1870年)に至って、明治政府は大友皇子に対し正式に弘文(こうぶん)天皇の諡号を贈り、第39代天皇として歴代天皇の列に加える決定を下した。これは、大友皇子が単なる敗者ではなく、正当な皇位の保持者であったことを国家が公認した歴史的な名誉回復であった。大友皇子の生涯と死は、日本が「氏族国家」から「律令制国家」へと変貌する過程における最大の激突の象徴として、日本史において極めて重要な意味を持ち続けている。

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Q. 律令国家の身分制度において、良民の下に置かれ、職業の選択や移動の自由を持たなかった隷属民を総称して何というか?
Q. 飛鳥時代の木造仏に多く見られる、頭から胴体にかけての一連の主要部分を一つの木材から彫り出す技法を何というか?