堀
【概説】
武士の居館の周囲に巡らされた、敵の侵入を防ぐための防御用の溝。水を通した「水堀」や、水を張らない「空堀」があり、中世武士の自衛精神と領国支配を象徴する重要な遺構である。
武士の館(中世居館)における防衛機能
鎌倉時代の武士(御家人など)は、自らの領地に「館(やかた)」や「武家屋敷」と呼ばれる居館を構えて生活していた。これらの館は単なる住居ではなく、有事の際には敵を防ぐ軍事拠点(砦)としての機能を持っていた。その防衛の要となったのが、館の周囲に築かれた土塁と、その外側に掘られた堀(ほり)である。
堀には、近くの河川などから水を引き込んだ水堀(みずぼり)と、水を張らない空堀(からぼり)が存在した。これらは、徒歩や騎馬による敵兵の突撃を鈍らせ、侵入を物理的に阻止するための第一次防衛線として機能した。特に東国に見られる武士の館は、平地に築かれることが多く、四方に強固な堀と土塁を巡らせることで、外敵に対する高い防御力を備えていた。
開発領主としての武士と自力救済の社会
鎌倉武士が館の周囲に堀を巡らせた背景には、当時の社会秩序が深く関わっている。中世の武士は、自ら土地を切り開いた開発領主(かいはつりょうし)であり、その土地の支配権は自らの武力によって維持せねばならなかった。当時は現代のような公的な警察権力が未発達であり、隣接する勢力との境界争いや領民の蜂起、一族内の家督争いなどが武力衝突に発展することが日常茶飯事であった。
このような「自力救済(自分の権利は自らの力で守る)」が原則の社会において、館の周囲の堀は、領主としての生命と財産(年貢米など)を守るための必須の設備であった。現代でも「堀之内(ほりのうち)」や「堀端(ほりばた)」といった地名が日本各地に残っているのは、かつてそこに武士の館が存在し、地域の政治・経済の拠点であったことの名残りである。
後世の城郭建築への発展
鎌倉時代に定着した堀と土塁による防衛プランは、その後の日本における軍事建築(城郭)の祖形となった。南北朝時代から室町・戦国時代にかけて戦闘の規模が拡大すると、防衛の拠点は平時の居館から、より険しい山上に築かれる「山城(やまじろ)」へと移行していく。
この過程で、山の斜面に掘る「竪堀(たてぼり)」や、堀の中に障壁を設ける「障子堀(しょうじぼり)」など、堀の技術はより複雑かつ高度に発達した。織豊期から江戸時代にかけて完成する近世城郭(姫路城や江戸城など)に見られる巨大な石垣や何重もの水堀も、そのルーツをたどれば、鎌倉武士が自衛のために館の周りに掘った素朴な「堀」に行き着くのである。