基地反対闘争

1950年代、全国各地のアメリカ軍基地の接収や拡張計画に対し、農民や革新勢力が激しく抵抗した運動を総称して何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
安保闘争(Wikipedia)

基地反対闘争

1950年代〜

【概説】
朝鮮戦争期からその後にかけ、日本国内のアメリカ軍基地の設置や拡張に対して、地元住民や労働組合、学生などが展開した組織的な抵抗運動。サンフランシスコ平和条約の締結による主権回復の裏で、日本が事実上の「不平等な基地国家」と化したことに対する国民的規模の反発から生じた社会運動である。

冷戦激化と「主権回復」の矛盾

1951年に署名されたサンフランシスコ平和条約によって、日本は1952年4月に主権を回復した。しかし、同時に締結された旧日米安全保障条約および日米行政協定(後の日米地位協定)により、連合国軍による占領終了後もアメリカ軍(在日米軍)が日本国内に駐留し続けることが決定した。

同時代のアジア情勢は、1950年に勃発した朝鮮戦争を中心に激しい冷戦構造の中にあった。アメリカ軍にとって日本は極東における最重要の前線兵站基地であり、日本国内の既存の軍事施設の継続使用のみならず、さらなる基地の拡張や新たな演習場の確保が急務とされた。これに対し、再び戦争に巻き込まれることへの恐怖や、平和憲法を擁護する立場から、米軍への土地提供を拒む地元住民、労働組合、知識人、学生らが結びつき、全国各地で激しい反対運動が巻き起こることとなった。

「内灘」と「砂川」――闘争の激化と武力衝突

基地反対闘争の先駆けとなったのが、1952年から1953年にかけて石川県河北郡内灘村(現・内灘町)で展開された内灘闘争である。米軍の砲弾試射場として接収されることに反対した地元漁民たちが座り込みを行い、これに全国の支援者が合流して日本初の本格的な反基地闘争へと発展した。最終的に試射場は接収されたものの、この闘争は全国の反対運動を大いに鼓舞した。

さらに激甚化したのが、1955年から始まった東京都砂川町(現・立川市)における砂川闘争である。米軍立川基地の滑走路拡張に伴う土地強制収用に対し、地元農民を中心に労働者や学生(全学連)が加わり、数千人規模の反対派が警官隊と激しく衝突する流血の事態を招いた。この闘争は1957年に反対派が基地内に立ち入ったとして刑事訴訟に発展し、一審の東京地裁(伊達秋雄裁判長)が「在日米軍の駐留は憲法第9条に違反する」として被告全員に無罪を言い渡した(伊達判決、のちに最高裁で破棄)ことで、憲法論争としても歴史に深く刻まれることとなった。結果として、政府は1968年に立川基地の拡張計画を断念した。

本土の終息と沖縄への「基地の押し付け」

基地反対闘争は、1960年の安保闘争へと至る大衆運動の源流となり、政府に対して強硬な基地拡張を躊躇させる政治的圧力を生み出した。その結果、本土におけるアメリカ軍基地の整理・縮小が進められたが、これはもう一つの重大な歴史的帰結を生み出すこととなった。

当時、未だ米軍の施政権下にあった沖縄(琉球政府)では、1950年代に「銃剣とブルドーザー」と称される強制的な土地接収が行われ、これに抗する「島ぐるみ闘争」が展開されていた。本土における激しい基地反対闘争の結果、日本の歴代政権は在日米軍の機能を本土から沖縄へと移転・集中させる方針をとり、これが1972年の沖縄返還後も続く深刻な「沖縄の基地問題」の固定化へとつながることとなった。基地反対闘争は、戦後日本における反戦平和運動の象徴であると同時に、本土と沖縄の間に横たわる構造的差別の契機ともなった事件である。

戦後政治史 第四版 (岩波新書 新赤版 1871)

戦後日本の政治構造を多角的な視点から解明し、激動の歴史の流れを体系的に整理した、現代を理解する必携の一冊。

基地の消長 1968-1973: 日本本土の米軍基地「撤退」政策

安保闘争の熱気と国際情勢の変化の中で、米軍基地がどのように変容を遂げたのかを精緻な資料で辿る歴史研究の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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