蝦夷ヶ島

古代から中世にかけて、本州の人々が北海道を指して呼んだ名称は何か?
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重要度
★★★

【参考リンク】
入間田宣夫(Wikipedia)

蝦夷ヶ島 (えぞがしま)

【概説】
古代から中世にかけて、アイヌの人々やその祖先が居住していた現在の北海道およびその周辺を指した呼称。本州の中央政権にとって支配の及ばない「異域」であると同時に、特産品をもたらす重要な交易の舞台であった。

古代国家の北方認識と呼称の変遷

古代の日本列島において、大和朝廷(律令国家)は東北地方以北に住む人々を「蝦夷(えみし)」と呼んで他者化し、徐々にその支配領域を北へと拡大していった。飛鳥時代の阿倍比羅夫による北方遠征の記録などにみられるように、当時の北海道周辺は海を隔てた異境として「渡島(わたりしま)」と呼ばれていた。奈良時代以降、出羽国や陸奥国の整備が進み、国家の支配領域が津軽海峡に近づくにつれて、対岸に広がる広大な島は独自の空間として認識されるようになる。やがて平安時代後期から中世にかけて、「えみし」という呼称は「えぞ」と読まれるようになり、彼らが居住する北海道本島は「蝦夷ヶ島」と称されるようになった。

蝦夷ヶ島における文化と交易

奈良・平安時代頃の蝦夷ヶ島は、独自の狩猟・採集・漁労を基盤とする擦文(さつもん)文化が展開していた時期にあたる。また、北東部のオホーツク海沿岸では北方系のオホーツク文化が栄え、両者は互いに影響を与え合いながら後のアイヌ文化(13世紀頃成立)へと繋がっていった。本州側との交易は早くから活発に行われており、蝦夷ヶ島からは昆布や鮭といった海産物、アザラシやヒグマの毛皮、そして武士にとって矢羽として不可欠であったワシやタカの羽などの特産品がもたらされた。見返りとして本州側からは鉄製品や米、漆器などが流入し、これらは蝦夷ヶ島の社会に大きな変化をもたらした。

中世武家政権と安藤氏の台頭

鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府は北条氏の得宗専制を背景に、津軽地方を本拠とする豪族・安藤氏(安東氏)を「蝦夷管領(蝦夷沙汰職)」に任じ、蝦夷ヶ島との交易や治安維持を管轄させた。14世紀後半に成立した『諏訪大明神絵詞』には、当時の蝦夷ヶ島に関する貴重な記録が残されている。同書では、蝦夷ヶ島の住人が和人とアイヌの中間的集団とされる「渡党(わたりとう)」、および「唐子(からこ)」「日ノ本(ひのもと)」の三類に分けて記されており、中世の和人社会が蝦夷ヶ島の実態をより詳細に把握し、多様な集団と交流を持っていたことが伺える。

近世への移行と「蝦夷地」への名称変化

室町時代後期になると、和人は蝦夷ヶ島南部の渡島半島に進出し、「道南十二館」と呼ばれる拠点を築いて定住を本格化させた。和人による不当な交易や圧迫に対し、1457年にはアイヌの指導者によるコシャマインの戦いが勃発する。この大規模な蜂起を鎮圧したことで、館主の一人であった蠣崎氏(かきざきし)が和人側の指導的地位を確立した。蠣崎氏はのちに松前氏と改姓し、豊臣秀吉や徳川家康からアイヌとの独占的交易権を認められ、近世大名としての地位を築き上げていく。江戸時代に入ると、幕藩体制のもとでこの地域は「蝦夷ヶ島」から次第に「蝦夷地」という呼称が一般化し、松前藩による支配と場所請負制のもとで、和人とアイヌの新たな関係性が構築されていくこととなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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