土倉役(倉役) (どそうやく(くらやく)
【概説】
室町幕府の重要な財源として、京都の金融業者(質屋・高利貸)である土倉に対して課された営業税。酒造業者への酒屋役とともに幕府の財政基盤を支え、武家政権が都市の貨幣経済を国家財政に組み込んだ画期的な制度である。
室町幕府の財政事情と土倉の台頭
鎌倉幕府が広大な関東御領を基盤としていたのに対し、室町幕府は直轄領(御料所)が少なく、農村部からの年貢収入だけでは財政基盤が極めて脆弱であった。一方、当時の京都は交通と商業の中心地として貨幣経済が急速に発展しており、なかでも土倉(どそう)と呼ばれる金融業者が莫大な富を蓄積していた。彼らは堅牢な土壁の倉(土蔵)を建てて質物を保管し、高利貸しを行っていた。
初期の土倉は、比叡山延暦寺や祇園社などの有力な寺社を本所(ほんじょ)と仰ぎ、座を結成してその保護下で営業を行っていた。幕府は自らの財政難を克服するため、これら豊かな京都の商工業者たちに着目することになる。
土倉役の制度化と納銭方
幕府は当初、臨時の出費があるたびに土倉から金銭を徴収していたが、第3代将軍足利義満の時代である1393年(明徳4年)、幕府は洛中洛外の土倉・酒屋に対する保護・統制権を寺社から奪い、彼らへの課税権を幕府に一元化した。これにより、土倉に対して定期的に課せられる営業税としての土倉役が制度として確立したのである。
土倉役の徴収にあたり、幕府は有力な土倉や酒屋を納銭方(のうせんかた)という徴税機関に任命した。納銭方は同業者から税を取り立てて幕府に納入する請負制を担い、その見返りとして特権的な地位を保障された。これにより、幕府は直接的な徴税の手間を省きつつ、都市の富を効率的に吸収するシステムを構築した。
「土倉・酒屋役」の歴史的意義
土倉役は、酒造業者に課された酒屋役(さかややく)とともに「土倉・酒屋役」と総称され、室町幕府の財政の最大の柱となった。一説には、最盛期の土倉・酒屋役による収入は、全国から集まる段銭(田地への臨時課税)などの農業収益を上回っていたとも言われる。
これは、日本史上初めて武家政権が農村の土地支配だけでなく、都市の商業資本・貨幣経済を国家の主要な財政基盤として組み込んだことを意味しており、経済史的に極めて重要な転換点であった。室町幕府が京都に置かれ、都市政権としての性格を強めていく上で、土倉役は不可欠な経済的土台であったと言える。
徳政一揆の頻発と制度の崩壊
しかし、室町時代中期以降、この強固に見えた財政システムは足元から揺らぎ始める。度重なる飢饉や戦乱により困窮した農民や馬借たちは、高利貸しを行っていた土倉や酒屋を襲撃して借金の帳消しを求める土一揆(徳政一揆)を頻繁に起こすようになった。1428年の正長の土一揆や、1441年の嘉吉の徳政一揆などがその代表例である。
土倉が打ちこわしの被害に遭うと、彼らからの税収に依存していた幕府財政も深刻な打撃を受けた。これに対し幕府は、一揆の要求を容れて徳政令を発布する代わりに、債務額の一定割合(通常は1割または2割)を債務者または債権者から幕府に納めさせる分一銭(ぶいちせん)という新たな収入源を編み出した。しかし、これは一時しのぎに過ぎず、応仁の乱(1467年~1477年)を経て京都が焼け野原となると、土倉の多くは没落するか地方へ逃れ、幕府を支えた土倉役という制度も事実上崩壊していくこととなった。