国際連合憲章
【概説】
サンフランシスコ会議で採択され、国際連合の設立、基本原則、組織構造などを規定した多国間条約。第二次世界大戦の惨禍を踏まえ、国際平和と安全の維持、人権の尊重などを掲げ、戦後の新たな国際秩序の根幹となった。
国際連合憲章の成立と新たな世界秩序
第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年4月から6月にかけて開催されたサンフランシスコ会議において、50か国の代表により採択され、同年10月に発効した。国際連盟の挫折を教訓とし、国際平和と安全の維持、基本的人権の尊重、経済的・社会的・文化的・人道的国際協力の達成を目的として制定された。特に安全保障分野においては、武力行使の原則的禁止を明記する一方で、アメリカ・イギリス・ソ連・フランス・中国の五大国からなる安全保障理事会に強大な権限と拒否権を与え、実効性のある集団安全保障体制の構築を目指した点が大きな特徴である。
日本国憲法との理念的共鳴
昭和初期の敗戦と連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領下において、国際連合憲章の理念は日本の国家再建に多大な影響を与えた。1946(昭和21)年に公布された日本国憲法の前文や、第9条における戦争の放棄・戦力不保持の徹底した平和主義は、国際連合憲章が掲げる「国際紛争の平和的解決」や「武力による威嚇又は武力の行使の禁止」の理念と深く共鳴している。新憲法の制定は、日本が過去の軍国主義と決別し、国連を中心とした新たな国際秩序に順応する「平和国家」として再生する決意を、国際社会に対して表明する役割を果たした。
日本の国連加盟と国際社会への復帰
1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約締結により主権を回復した日本にとって、国際連合への加盟は国際社会へ完全に復帰するための最大の外交目標であった。しかし、冷戦下の東西対立の激化により、西側諸国の一員となった日本の加盟は、東側陣営のソ連による安全保障理事会での拒否権発動によって幾度も阻まれた。事態が打開されたのは、1956(昭和31)年に鳩山一郎内閣の下で日ソ共同宣言が調印され、ソ連との国交が回復した時である。ソ連が日本の加盟に同意した結果、同年12月の第11回国連総会において全会一致で日本の国連加盟が承認された。これにより、日本は名実ともに国際社会への復帰を果たした。
日本外交の基本方針と「旧敵国条項」の課題
国連加盟の翌1957(昭和32)年、岸信介内閣は『外交青書』において「国連中心主義」「自由主義諸国との協調」「アジアの一員としての立場の堅持」を日本外交の三原則として掲げた。以後、日本は国連を通じた平和維持活動や経済・社会開発、人道支援の分野で積極的な役割を担い、国際社会における地位を向上させていった。一方で、憲章の第53条や第107条などに残存する、第二次世界大戦中の枢軸国(日本やドイツなど)に対する武力制裁の例外を定めた「旧敵国条項」は、日本の歴史的負の遺産となった。冷戦終結後の1995(平成7)年、国連総会で旧敵国条項の削除決議が採択されたものの、憲章改正の手続きの困難さから現在も条文上は残されており、安全保障理事会の常任理事国入りを目指す日本の外交において、象徴的かつ歴史的な課題の一つとなっている。