呉春(松村月渓) (ごしゅん、まつむらげっけい)
【概説】
江戸時代中後期に京都で活躍した絵師。与謝蕪村から学んだ文人画(南画)の文学的抒情性と、円山応挙から取り入れた写実的な写生画風を融合させ、独自の「四条派」を確立した創始者である。
蕪村からの継承と「呉春」の誕生
呉春は、京都の金座に勤める役人の家に生まれた。若くして多才であり、絵画だけでなく俳諧や琴などにも通じていた。20代前半で南画の大家である与謝蕪村に師事し、絵画と俳諧を学ぶ。蕪村からその才能を深く愛され、一時期は蕪村の画号「謝寅(しゃいん)」を名乗ることを許されるほど密接な師弟関係を築いた。しかし、安永10年(1781年)前後に妻と母を相次いで失う不幸に見舞われ、京都を離れて大坂近郊の池田(現在の大阪府池田市)に移り住む。この池田の古名「呉服(くれは)の里」で春を迎えたことにちなみ、これまでの「月渓」から「呉春」へと改名した。
応挙との出会いと「四条派」の確立
天明の大火(1788年)の後、京都に戻った呉春は、当時圧倒的な人気を誇っていた円山応挙と親交を深める。応挙は、自然や対象を客観的に観察して描く「写生」を重視し、円山派を興していた。呉春は応挙の実証的な写実主義に強い影響を受け、蕪村譲りの軽妙で詩情あふれる文人画風に、応挙の客観的な写生技術を取り入れるという独自の画風を模索し始める。こうして誕生した、写実的でありながらもどこか優雅で、人々の心に寄り添う親しみやすい作風は、京都の四条にアトリエを構えたことから「四条派」と呼ばれるようになった。
町衆への浸透と近代日本画への系譜
呉春が興した四条派は、応挙の円山派とともに「円山・四条派」と並び称され、江戸時代後期の京都画壇を二分する一大勢力へと成長した。知的な教養を必要とする伝統的な狩野派や、やや難解な文人画に比べ、日常生活に溶け込む親しみやすさと洗練された美しさを兼ね備えた四条派の画風は、新興の都市富裕層(町衆)から熱狂的に受け入れられた。呉春の死後も、その伝統は弟の松村景文や弟子の岡本豊彦らによって受け継がれ、明治以降の近代京都画壇(塩川文麟、幸野楳嶺、そして近代日本画の巨匠である竹内栖鳳など)の形成に決定的な影響を与えることとなった。