台湾出兵(征台の役) (たいわんしゅっぺい/せいたいのえき)
【概説】
1874年(明治7年)、琉球島民が台湾原住民に殺害された事件に対する報復を名目として、日本政府が台湾へ軍隊を派遣した事件。清国が原住民を「化外の民」としたことを口実に行われ、明治政府にとって初の本格的な海外派兵となった。最終的に清国から賠償金を引き出し、琉球の日本帰属を国際的に既成事実化する契機となった。
宮古島島民遭難事件と「化外の民」
台湾出兵の発端となったのは、1871年(明治4年)に発生した宮古島島民遭難事件(牡丹社事件)である。琉球王国の宮古島から首里へ年貢を納めて帰途についていた船が台風に遭って台湾南部に漂着し、上陸した乗組員54名が地元の台湾原住民(パイワン族)によって殺害された。
翌1872年、日本政府は琉球王国を廃止して琉球藩を設置し、琉球の全権を日本が掌握したとして、清国に対して事件の賠償と処罰を求める外交交渉を開始した。これに対し清国政府は、台湾の原住民は政府の統治や教化が及ばない「化外の民」であると主張し、責任を回避した。日本政府はこの回答を逆手に取り、清国の主権が及ばないのであれば日本が直接「問罪」を行うとして、武力行使への大義名分を得ることとなった。
不平士族の不満と内政的背景
台湾出兵が決定された背景には、当時の緊迫した国内情勢が深く関わっている。1873年(明治6年)、朝鮮への武力行使を巡る明治六年政変(征韓論争)により、西郷隆盛や板垣退助らが政府を去り、武力討伐を強硬に主張していた士族たちの間で新政府に対する不満が急激に高まっていた。
1874年2月には江藤新平らによる佐賀の乱が勃発しており、大久保利通を中心とする政府は、不平士族の暴発を防ぐための「ガス抜き」として外征を必要としていた。そこで、征韓論に代わる新たな対外強硬策として、台湾への出兵が政治的・軍事的に利用されたのである。
軍事行動の展開と風土病の猛威
1874年4月、政府は西郷従道(西郷隆盛の弟)を台湾蕃地事務都督に任命し、出兵を命じた。列強の介入を恐れた大久保利通や木戸孝允らが直前で出兵の延期を試みたものの、西郷従道はこれを無視して独断で出兵を強行し、長崎から台湾へ向けて出航した。
日本軍は台湾南部に上陸し、圧倒的な近代兵器の火力をもって原住民を速やかに制圧した。しかし、台湾の高温多湿な熱帯環境に日本軍は苦しめられ、戦闘による死者よりもマラリアなどの風土病による病死者が続出した。派遣された約3,600名の兵力のうち、戦死者はわずか十数名であったのに対し、病死者は500名以上にのぼり、軍の維持は極めて困難な状況に陥った。
北京専条の締結と琉球処分への布石
事態の長期化を避けるため、全権弁理大臣として大久保利通が清国の首都・北京に赴き、外交交渉による解決を図った。交渉は難航したものの、イギリス公使トーマス・ウェードの調停により、同年10月に日清両国間で北京専条が締結された。
この条約で、清国は日本の台湾出兵を自国民を保護するための「保民の義挙」であると公式に認め、事実上の賠償金にあたる撫恤金(ぶじゅつきん)50万両を支払うこととなった。
台湾出兵の最大の歴史的意義は、清国が「保民の義挙」と承認したことにより、殺害された琉球島民を「日本の属民」として扱った点にある。これにより、日清間で帰属が曖昧であった琉球が日本の領土であることを、清国が間接的に承認した形となった。この外交的成果は、1879年(明治12年)に日本政府が琉球藩を廃止して沖縄県を設置する琉球処分を断行するための決定的な布石となったのである。