勅撰和歌集
【概説】
天皇や上皇(治天の君)の命によって編纂された公式な和歌集のこと。905年(延喜5年)に醍醐天皇の命で編纂された最初の『古今和歌集』に始まり、室町時代の『新続古今和歌集』に至るまで計21の集が作られた。これらは総称して「二十一代集」と呼ばれ、和歌の発展の軌跡を示すのみならず、時の政治権力と密接に結びついた歴史的意義を持つ。
国風文化の開花と和歌の公認
日本の宮廷文学は、平安時代初期の弘仁・貞観文化期までは『凌雲集』などの勅撰漢詩集に代表されるように、唐風の漢詩文が公的な教養として重んじられていた。しかし、9世紀後半から仮名文字が発達し、日本の風土や心情に根ざした国風文化が台頭すると、和歌の地位も次第に向上していった。この流れを決定づけたのが、905年(延喜5年)に醍醐天皇の命によって編纂された最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』である。紀貫之らが撰者となったこの歌集の成立により、和歌は漢詩と並ぶ公的な文学(晴の文学)として朝廷に公式に認められることとなった。以降、和歌を詠むことは貴族社会において不可欠な政治的・社会的教養として定着していく。
「八代集」の時代と院政期の文化
『古今和歌集』以降、村上天皇期の『後撰和歌集』、花山法皇期の『拾遺和歌集』と編纂が続き、これらを合わせて「三代集」と呼ぶ。その後、平安時代後期に入ると、白河上皇・鳥羽上皇といった治天の君が編纂を命じた『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』が続く。とくに院政期においては、上皇が政治の実権を握るとともに文化の保護者としても君臨し、勅撰和歌集の編纂は「治天の君」としての権威を誇示する重要な国家事業としての性格を強めていった。
そして鎌倉時代初期の1205年(元久2年)、後鳥羽上皇の命によって『新古今和歌集』が成立する。藤原定家や藤原家隆らが撰者となったこの歌集は、「幽玄」や「有心(うしん)」と呼ばれる中世的象徴主義の美意識を完成させ、和歌史上の最高峰と評される。『古今和歌集』から『新古今和歌集』までの計8つの勅撰和歌集は「八代集」と総称され、後世の連歌や俳諧、国文学研究において古典中の古典として尊ばれた。
十三代集と政治的対立の反映
『新古今和歌集』以後に作られた13の勅撰和歌集は「十三代集」と呼ばれる。鎌倉時代中期以降の勅撰和歌集の編纂は、当時の複雑な政治情勢や宮廷社会の派閥争いを色濃く反映している。とくに和歌の家元であった御子左家(みこひだりけ)が二条派・京極派・冷泉派に分裂して激しく対立すると、それぞれが天皇家における大覚寺統と持明院統の対立と結びついた。両統の天皇や上皇は、自派の歌人を撰者に任命して勅撰和歌集を編纂させることで、自らの皇統の正統性と文化的覇権を主張しようとしたのである。
勅撰和歌集の終焉
南北朝の内乱を経て室町時代に入ると、武家政権(室町幕府)が安定し、足利将軍家が朝廷の文化的パトロンとしての役割を担うようになる。1439年(永享11年)、後花園天皇の命(実質的には6代将軍足利義教の執奏)により『新続古今和歌集(しんしょくこきんわかしゅう)』が編纂されたが、これが最後の勅撰和歌集となった。その背景には、朝廷の経済的困窮や権威の低下に加え、武士や庶民の間で「連歌」が流行し、和歌に代わる新たな文芸として隆盛を極めていったという文化的変容がある。以後、天皇の命による和歌集編纂の歴史は幕を閉じたが、二十一代集に収められた和歌は、日本人の美意識の源流として後世の文化に絶大な影響を与え続けた。