加墾禁止令 (かこんきんしれい)
【概説】
奈良時代の765年、称徳天皇(道鏡政権)によって発布された、寺院以外の開墾および私有化を原則として禁止した法令。743年の墾田永年私財法によって生じた、貴族や有力者による大土地所有の抑制と、社会秩序の安定化を目的とした。
墾田永年私財法の弊害と社会の動揺
聖武天皇の時代に発布された墾田永年私財法(743年)は、開墾した土地の永久私有を認めることで、農業生産力の向上を狙った画期的な法令であった。しかし、この法令は結果として中央の有力貴族や大寺社による大規模な土地囲い込みを誘発し、いわゆる初期荘園(墾田地系荘園)の形成を促すこととなった。これにより、開墾用の労働力や資力を持たない一般の農民(公民)は、有力者に土地を奪われたり、過酷な労役から逃れるために浮浪・逃亡したりするケースが急増した。こうした事態は、公地公民制を基礎とする律令体制の崩壊の危機、ひいては国家の税収減少に直結する深刻な社会問題となっていた。
称徳・道鏡政権の意図と法令の内容
764年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱を鎮圧した称徳天皇は、政権のパートナーとして僧侶の道鏡を重用した。翌765(天平神護元)年に発布された「加墾禁止令」は、こうした政治的再編の中で打ち出されたものである。この法令では、一般貴族や地方豪族、百姓による新たな開墾(加墾)および土地の私有化を全面的に禁止する一方、寺社にのみ開墾の継続を認めるという例外措置を設けた。ここには、土地開発を抑制して国家の公地公民制を維持・再建しようとする意図とともに、仏教を政治の柱に据え、大寺院を政権の有力な支持基盤としようとした道鏡政権特有の政治的意図が色濃く反映されていた。
政策の挫折と歴史的意義
加墾禁止令は、急激に進む貴族の大土地所有に一定の歯止めをかける試みであったが、その効果は一時的なものにとどまった。この法令は、地方の開発意欲を削ぐことになり、国家全体の農業生産力の停滞を招くという不評を買う結果となった。そのため、称徳天皇の崩御と道鏡の失脚を経て即位した光仁天皇の時代、772(宝亀3)年に加墾禁止令は撤廃され、墾田永年私財法が全面的に復活した。この一連の動向は、律令国家による土地支配が限界に達し、土地の私有化という歴史の奔流を押しとどめることが不可能であったことを象徴的に示している。