切支丹屋敷 (きりしたんやしき)
1646年〜1792年
【概説】
江戸幕府のキリスト教禁教政策において、捕らえられた宣教師や信徒を収容・審問するために江戸に設けられた専用施設。初代宗門改役となった大目付・井上政重の下屋敷内に設置され、棄教(転向)の説得や監視を行う対キリスト教政策の拠点となった。
設置の背景と井上政重の役割
島原の乱(1637〜38年)の平定後、江戸幕府はキリスト教の根絶を目指して禁教政策を本格化させた。幕府は1640年(寛永17年)に宗門改役を創設し、その初代に大目付の井上政重を任命した。政重は、従来の過酷な拷問・処刑による弾圧だけでなく、宣教師を棄教させて「転向宣教師」とし、その専門知識を利用して他の信徒を説得・監視させるという、組織的かつ心理的な禁教システムを構築した。この方針のもと、1646年(正保3年)、江戸小日向(現在の東京都文京区)にあった政重の下屋敷内に建てられたのが切支丹屋敷である。屋敷内には獄舎のほか、転向した宣教師が日本名を与えられて暮らす居住区画も設けられていた。
シドッチの幽閉と知性への影響
切支丹屋敷の歴史において最も特筆すべきは、1708年(宝永5年)に屋久島へ潜入して捕らえられたイタリア人宣教師ジョヴァンニ・バティスタ・シドッチの収容である。シドッチは切支丹屋敷に幽閉され、学者政治家として権勢を振るっていた新井白石による尋問を受けた。白石はシドッチとの対話を通じて、キリスト教の教義だけでなく、西洋の高度な科学技術、地理、国際情勢に関する最新知識を吸収した。この成果は白石の著書『西洋紀聞』や『采覧異言』に結実し、のちの蘭学の勃興や幕府の対外認識の転換を促す重要な契機となった。その後、国内のキリスト教徒が激減したことで屋敷の必要性は薄れ、1792年(寛政4年)の火災による焼失を機に再建されることなく廃止された。