公議世論 (こうぎせろん)
【概説】
幕末から明治初期にかけて台頭した、一握りの指導者による専制を排し、広く合意や公の議論に基づいて国政を決定すべきであるとする政治思想。明治政府の発足時に「五箇条の誓文」の第一条に掲げられ、新国家の基本方針として位置づけられた。のちに藩閥政治を批判し、議会の開設を求める自由民権運動の強力な論理的根拠となった。
幕末の政治危機が生んだ「公議政体論」
公議世論の思想的ルーツは、幕末期の政局混迷の中に求められる。ペリー来航以降、江戸幕府は単独で鎖国から開国への国是転換を決定することができず、朝廷の意向を伺い、諸大名に意見を求めるという前代未聞の行動をとった。これにより、幕府による「専制」の権威は失墜し、代わりに国家の重要事項は有力大名(雄藩)や朝廷が合議して決めるべきだとする公議政体論(こうぎせいたいろん)が台頭した。
この動きは、越前藩の松平慶永や土佐藩の山内豊信(容堂)、さらに横井小楠や坂本龍馬らの活動によって具体化された。彼らは、徳川将軍を首班とする諸侯会議(大名による議会)を設置し、合議によって国政を運営することを目指した。この「一人の独裁を排し、衆議を重んじる」という合意形成のあり方が、明治期における「公議世論」の思想的土台となったのである。
「五箇条の誓文」による国家方針としての定着
1868年、戊辰戦争の最中に発布された新政府の基本方針「五箇条の誓文」において、公議世論は国家の最高理念として公認された。その第一条には、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と明記された。これは、新政府が薩長両藩による独裁を行うものではなく、広く天下の意見を採用して政治を行うという姿勢を内外に宣誓したものであった。
新政府がこの方針を掲げた背景には、旧幕府勢力や東国諸藩の警戒感を解き、諸藩を新政権のもとに結集させるという政治的妥協の側面もあった。事実、新政府は初期において太政官内に「公議所」や「集議院」といった初期的な議事機関を設置し、士族たちから意見を求める試みを行っている。しかし、大久保利通らを中心とする新政府の指導層は、近代化(富国強兵・殖産興業)を迅速に進めるため、次第に少数の官僚が権力を握る藩閥独裁(有司専制)へと傾斜していった。
藩閥専制への抵抗と自由民権運動への展開
公議世論の理念は、一度は形骸化しかけたものの、明治政府の独裁化に対する抵抗の武器として再評価されることになる。1873年の「明治六年の政変」で征韓論に敗れて下野した板垣退助や後藤象二郎らは、翌1874年に民撰議院設立建白書を提出した。彼らは、政府の現状を「有司専制(官僚による独裁)」と激しく批判し、その不当性を訴える論拠として「五箇条の誓文」の「万機公論に決すべし」という約束を持ち出したのである。
板垣らが展開した自由民権運動において、公議世論は「国民の代表が議会を組織し、そこで国政を議論して決定する」という現代的な民主主義・議会政治の要求へと発展を遂げた。かつて幕末に「大名や武士の合意」として出発した公議の概念は、民権運動の広がりを通じて「一般国民(平民)の世論」へとその主体を拡張した。このように、公議世論の思想は、日本における議会開設(帝国議会の設立)と憲法制定を促す最大の歴史的原動力となった。