ヤン=ヨーステン(耶楊子) (やようす)
【概説】
江戸時代初期に日本に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長。徳川家康に保護されて外交顧問として重用され、その日本名である「耶楊子」は江戸の「八重洲」の地名の由来となった。ウィリアム=アダムスと共に、幕府の対外政策への助言や初期の朱印船貿易に大きく貢献した人物である。
リーフデ号の漂着と徳川家康との出会い
1598年、オランダから東洋に向けて出航した5隻の艦隊のうち、唯一東アジアに到達したのがリーフデ号である。同船は過酷な航海により多数の死者を出し、1600年(慶長5年)に豊後国(現在の大分県)臼杵湾に漂着した。この時、自力で上陸できたのは航海長のヤン=ヨーステンや、イギリス人水先案内人のウィリアム=アダムス(三浦按針)らわずか数名であった。
当時、日本で布教活動と貿易の主導権を握っていたポルトガルやスペインのカトリック宣教師たちは、新教国オランダの船を「海賊船」であると主張し、乗組員を処刑するよう強硬に要求した。しかし、天下人として実権を握りつつあった徳川家康はこれを退け、大坂や江戸で彼らを引見した。家康は彼らから海外の国際情勢や地理、航海術、造船術などを熱心に聴取し、その豊富な知識を高く評価して手厚く保護したのである。
幕府の外交顧問と朱印船貿易への従事
家康の信任を得たヤン=ヨーステンは、アダムスと共に江戸幕府の外交顧問として活躍することとなった。折しも幕府は、カトリック布教と一体化した南蛮貿易(ポルトガル・スペイン)に対し警戒を抱き始めており、布教を伴わないプロテスタント国(オランダ・イギリス)との紅毛貿易へと比重を移そうと模索していた。
彼は幕府とオランダ東インド会社との仲介役として立ち回り、1609年(慶長14年)の平戸におけるオランダ商館の開設に大きく貢献した。さらに、家康から屋敷や禄を与えられ、日本人の妻を娶って定住し、自らも幕府から朱印状を下賜された。これにより朱印船貿易の担い手となり、安南(ベトナム)やシャム(タイ)などの東南アジア諸国と活発に交易を行って莫大な富を築いた。
「八重洲」の由来と晩年の悲劇
ヤン=ヨーステンは、江戸城内堀沿いの和田倉門外(現在の東京都千代田区)に立派な邸宅を与えられていた。彼の日本名である「耶楊子(やようす)」にちなんで、その屋敷の周辺は「八代洲(やよす)河岸」と呼ばれるようになり、これが転じて現在の東京駅周辺を指す「八重洲」という地名の語源となった。
日本で高い地位と富を得た彼であったが、晩年は次第に故郷オランダへの帰国を望むようになった。しかし、幕府にとって有用な人物であったため帰国は許可されず、また個人的な貿易活動を行っていたことから、自国のオランダ東インド会社との関係も悪化していった。1623年、バタヴィア(現在のジャカルタ)へ向かったが交渉は不調に終わり、日本への帰途に就いた。その途中、南シナ海のパラセル諸島(西沙諸島)付近で乗船が座礁し、波乱に満ちた生涯を海中に閉じた。
歴史的意義
ヤン=ヨーステンは、同僚のウィリアム=アダムスと並び、南蛮貿易から紅毛貿易へと転換期を迎えていた初期江戸幕府の対外政策に決定的な影響を与えた。彼らがもたらしたヨーロッパの最新知識は、家康の現実的かつ重商主義的な外交の強力な裏付けとなった。のちの「鎖国」体制下において、オランダが唯一の西洋の貿易国としての地位を確立する基礎は彼らによって築かれたと言える。現代の日本の中心地にその名をとどめる彼は、日蘭交流史における最大の象徴の一人である。