リーフデ号
【概説】
1600年(慶長5年)、豊後国(現在の大分県)の臼杵湾に漂着したオランダの武装商船。航海長であったイギリス人のウィリアム・アダムズやオランダ人のヤン・ヨーステンらが乗船しており、のちに徳川家康の外交顧問として重用された。日本とオランダおよびイギリスとの国交が開始され、その後の「鎖国」体制下におけるオランダとの独占的関係へとつながる歴史的契機となった。
過酷な航海と豊後への漂着
16世紀末、スペインからの独立戦争の最中にあったオランダは、カトリック大国であるスペインやポルトガルが独占していたアジアの香辛料貿易に参入するため、独自に東洋航路の開拓を目指していた。1598年、ロッテルダムの商会によって5隻の艦隊が編成され、東洋を目指して出航した。リーフデ号(当初の船名はエラスムス号)はそのうちの1隻である。
マゼラン海峡を経由して太平洋を横断するこの航海は極めて過酷であり、嵐による難破やスペイン軍・先住民との交戦、飢えや壊血病によって艦隊は次々と脱落していった。唯一太平洋を横断できたリーフデ号も、出航時に110名いた乗組員は激減し、1600年(慶長5年)4月に豊後国(現在の大分県)の臼杵湾に漂着した際、自力で上陸できたのはわずか数名、生存者も20名強という悲惨な状況であった。なお、この漂着は関ヶ原の戦いが勃発する約半年前の出来事である。
徳川家康の引見と保護
当時、日本において布教と貿易の主導権を握っていたのは、ポルトガルやスペイン出身のイエズス会宣教師たちであった。彼らは新教(プロテスタント)国であるオランダやイギリスの進出を警戒し、漂着したリーフデ号の乗組員を「海賊」として処刑するよう日本側に強く進言した。
しかし、五大老の筆頭として実権を握りつつあった徳川家康は、大坂城でリーフデ号の航海長であったイギリス人のウィリアム・アダムズや、オランダ人のヤン・ヨーステンを引見した。家康は彼らの持つ航海術や天文学、数学、さらには国際情勢に関する豊かな知識を高く評価し、宣教師らの要求を退けて彼らを保護する決断を下した。また、リーフデ号に積載されていた大砲や火縄銃などの武器は没収され、関ヶ原の戦いにおいて家康軍(東軍)の戦力として活用されたとも伝えられている。
外交顧問としての重用と日蘭関係の幕開け
江戸幕府を開いた後も、家康はアダムズやヨーステンを外交顧問として重用し続けた。アダムズは三浦半島に領地を与えられて三浦按針(みうらあんじん)と名乗り、ヨーステンも江戸城の堀端に屋敷を与えられて耶楊子(やようす)と呼ばれた。現在の東京駅周辺の地名である「八重洲(やえす)」は、彼の名に由来している。彼らは西洋式帆船の建造や、東南アジア方面への朱印船貿易の推進に大きく貢献した。
リーフデ号の漂着は、それまでカトリック国であるポルトガル・スペインが独占していた南蛮貿易の体制に風穴を開ける出来事であった。アダムズらの仲介と尽力により、1609年にはオランダが、1613年にはイギリスがそれぞれ肥前国の平戸に商館を開設し、プロテスタントである紅毛人との貿易が正式に開始された。
その後、幕府がキリスト教の禁教を徹底し、ポルトガル船の来航を禁止する過程(いわゆる「鎖国」の完成)において、布教を伴わず貿易のみを目的とするオランダは生き残り、長崎の出島において西洋で唯一の貿易相手国としての地位を確立することになる。リーフデ号の漂着は、近世日本の対外関係史の方向性を決定づけた極めて重要なターニングポイントであったと言える。