マッカーサー草案
【概説】
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が、日本政府の提示した保守的な憲法改正案を拒絶し、1946年2月に自ら作成して日本側に提示した独自の憲法草案。主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重を基本原則とし、わずか約1週間という短期間で起草された。これが現在の日本国憲法の強固な土台となり、日本の民主化を決定づける歴史的転換点となった。
松本案の拒絶と草案作成の政治的背景
1945年8月の敗戦後、連合国による日本占領が始まると、ポツダム宣言に基づき日本の民主化と憲法改正が急務となった。幣原喜重郎内閣は、憲法学者である国務大臣・松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会を設置し、大日本帝国憲法(明治憲法)の改正作業を進めた。しかし、1946年2月に提出された日本政府案(いわゆる「松本案」)は、天皇の大権を維持し、国民の権利制限も残すなど、極めて保守的で明治憲法の枠組みを大きく出ないものであった。
この内容を新聞のスクープ報道で知った最高司令官ダグラス・マッカーサーおよびGHQ民政局(GS)は、松本案では連合国側の要求する民主化を達成できないと判断した。さらに当時、ソ連やオーストラリアなど対日強硬派を含む諸国で構成される極東委員会(FEC)の発足が同月下旬に迫っていた。極東委員会が本格始動すれば、天皇の戦犯追及や天皇制廃止の要求が強まることが予想されたため、マッカーサーは先手を打ってGHQ主導の民主的な憲法草案を既成事実化する必要に迫られていた。こうして、日本政府に代わる独自の草案作成が極秘裏に決定されたのである。
「マッカーサー三原則」と驚異的な起草作業
マッカーサーは、民政局長コートニー・ホイットニー准将に対し、草案作成にあたって厳守すべき3つの基本原則(いわゆる「マッカーサー三原則」)を提示した。その内容は第一に「天皇は国家の元首であり、皇位は世襲されるが、その権能は憲法に基づき、国民の基本意志を代表するものに留まること(天皇制の維持・象徴化)」、第二に「国権の発動たる戦争の放棄、および紛争解決の手段としての戦争の否認、陸海空軍その他の戦力の保持禁止(戦争放棄・非軍備)」、第三に「日本の封建制度の廃止」であった。
民政局の約25名のスタッフは、この三原則のもと、世界各国の憲法や民主主義的法思想を参考にしながら、1946年2月4日からわずか約1週間という異例の速さで起草作業を進めた。このメンバーの中には、のちに人権保障、特に女性の権利向上(後の憲法第24条)に大きく貢献することとなるベアテ・シロタ・ゴードンなども含まれていた。突貫工事ともいえる作業の結果、2月12日には「マッカーサー草案」が完成した。
日本政府の動揺と「日本国憲法」への妥協
1946年2月13日、ホイットニー民政局長らは、外相・吉田茂や松本烝治ら日本政府代表に対し、松本案の拒絶を正式に通告するとともに、マッカーサー草案を提示した。国体(天皇制)の護持を最優先事項と考えていた日本政府にとって、主権在民や一院制(のちに日本側の要望で二院制に修正)の導入、徹底した人権保障を謳うGHQ案は極めて革命的であり、大きな衝撃をもって受け止められた。
日本側は抵抗を試みたものの、GHQ側から「この草案を受け入れなければ、天皇の身の安全(戦犯訴追の回避)を保障できず、またGHQがこの草案を直接日本国民に提示して信を問う(強制的に実施する)用意がある」と強く迫られ、最終的に妥協を余儀なくされた。政府はマッカーサー草案を基礎として「憲法改正草案要綱」を作成し、同年3月6日に発表した。これが同年秋の帝国議会での審議・修正を経て、同年11月3日に「日本国憲法」として公布されることとなった。マッカーサー草案は、戦後日本の平和主義とデモクラシーの原点となったと同時に、その後の「押し付け憲法論」などの改憲・護憲論争の火種ともなり続けた。