アラブ石油輸出国機構(OAPEC) (あらぶせきゆゆしゅつこくきこう)
【概説】
第4次中東戦争の際、イスラエルを支持する西側諸国に対して石油の禁輸や生産削減を実施し、「石油戦略」を展開したアラブの産油国による国際組織。この戦略は世界的なエネルギー危機を引き起こし、日本においては高度経済成長期の終焉を決定づける契機となった。
OAPECの結成と「石油武器化」の背景
アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、1968年にサウジアラビア、クウェート、リビアの3カ国によって設立された、アラブの産油国による国際組織である。先行して存在していた石油輸出国機構(OPEC)が非アラブの産油国(ベネズエラやイランなど)を含む純経済的な組織であったのに対し、OAPECはアラブ諸国の一致団結と政治的影響力の行使を強く意識して組織された点に特徴がある。
1973年10月、エジプト・シリアとイスラエルの間で第4次中東戦争が勃発すると、OAPECはイスラエルを軍事的に支援するアメリカやオランダなどの西側諸国に対し、石油の禁輸および段階的な生産削減を断行した。資源を外交・政治交渉の手段として利用するこの「石油戦略」は、国際政治における産油国の地位を劇的に高め、世界のエネルギー秩序を大きく揺るがすこととなった。
日本経済への直撃と高度経済成長の終焉
OAPECによる石油戦略の実施と、それに伴う原油価格の大幅引き上げは、日本に第一次オイルショック(石油危機)をもたらした。当時、急速な高度経済成長を遂げていた日本は、エネルギー源を石炭から石油へと転換(エネルギー革命)させており、その石油の約8割を中東からの輸入に依存していたため、極めて深刻な打撃を受けることとなった。
国内では、原油高騰に伴うインフレ懸念から、トイレットペーパーや洗剤などの生活物資の買い占め騒動(狂乱物価)が発生し、社会的な混乱が生じた。また、工場操業の短縮や深夜テレビ放送の自粛、ネオンサインの消灯といった省エネルギー運動が官民を挙げて展開された。この結果、1974年度の日本の実質経済成長率は戦後初のマイナス成長(マイナス1.2%)を記録し、1950年代半ばから続いていた高度経済成長期は終焉を迎えることとなった。
「親アラブ外交」への転換と産業構造の変革
未曾有の危機を打開するため、当時の田中角栄内閣は従来の親米・中立外交からの転換を余儀なくされた。1973年11月、二階堂進官房長官が「パレスチナ人の正当な権利の尊重」や「イスラエル軍の占領地からの撤退」を求める談話を発表。この親アラブ外交への方針転換により、日本はOAPECから「友好国」として認定され、供給削減措置の対象から除外されることとなった。
さらに、この石油危機は日本の経済・産業の体質改善を促す契機ともなった。従来の石油多消費型の重化学工業から、エレクトロニクスなどの省資源・省エネルギー型(知識集約型)産業への移行が急速に進んだ。また、原子力発電や液化天然ガス(LNG)など、石油に依存しない代替エネルギーの開発と導入が国策として推進され、エネルギーの供給源多角化が図られた。