アフガニスタン(撤兵)
【概説】
ソビエト連邦の最高指導者ゴルバチョフが推進した新思考外交に基づき、1988年から1989年にかけて行われたアフガニスタンからのソ連軍の全面撤退。約10年間に及んだ軍事介入の終結であり、東西冷戦の解体と、昭和から平成へと移行する日本外交の転換に決定的な影響を与えた歴史的出来事である。
ソ連のアフガニスタン侵攻と日本の初期対応
1979年12月、ソビエト連邦は親ソ派政権の維持を目的にアフガニスタンへ侵攻した。これに対し、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国は猛烈に反発し、国際社会は「新冷戦」と呼ばれる極めて緊迫した局面に突入した。西側陣営の一員であった日本(大平正芳内閣)も、このソ連の行動を「国際秩序への重大な挑戦」として強く非難した。
日本政府は、対ソ経済制裁の実施や、1980年に開催されたモスクワオリンピックへのボイコットなど、アメリカと同調した強硬姿勢をとった。この出来事は、それまでの日本の多角的外交を軌道修正させ、昭和後期の防衛政策(防衛費の増額や防衛計画の大綱の見直し論議)を加速させる契機となった。
「新思考外交」と撤兵の断行
アフガニスタンへ介入したソ連軍は、ゲリラ戦を展開するムジャヒディン(反政府武装勢力)の抵抗や、アメリカによる地対空ミサイルなどの兵器支援により、莫大な戦費と人的犠牲を重ねる「泥沼」の様相を呈した。この状況を劇的に変化させたのが、1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフであった。
ゴルバチョフは内政の改革(ペレストロイカ)を推進するため、外交面でも従来の対決路線を改める「新思考外交」を提唱した。彼はアフガニスタンを「開いた傷口」と表現し、早期の軍事介入終結を模索した。1988年4月にジュネーヴ協定が調印されると、同年5月からソ連軍の段階的撤退が開始され、1989年2月15日に完全撤兵が完了した。
冷戦終結と日本への歴史的影響
ソ連軍のアフガニスタン撤兵は、長年にわたる冷戦構造の崩壊を世界に印象づけた。同年の1989年には、欧州でベルリンの壁が崩壊し、マルタ会談によって冷戦の終結が宣言された。日本においては、ちょうど昭和から平成への改元が行われた時期であり、国内外で新たな国際秩序の模索が始まった時期に重なっている。
冷戦の終結は、日本にとって安全保障環境の激変を意味した。それまで「北方の脅威(ソ連)」を主眼においてきた自衛隊の防衛構想や、日米安全保障条約のあり方が再考される契機となった。さらに、この直後に発生した湾岸戦争(1990〜91年)を経て、日本は国連平和維持活動(PKO)への自衛隊派遣をはじめとする、冷戦後の「国際貢献」をめぐる激しい政治的・憲法上の論争へと突入していくことになった。