竹下登内閣

「ふるさと創生」を掲げて成立し、戦後初の本格的な間接税である消費税を導入したが、大型汚職事件で退陣した内閣は誰の内閣か?
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重要度
★★

【参考リンク】
竹下内閣(Wikipedia)

竹下登内閣 (たけしたのぼるないかく)

1987年〜1989年

【概説】
中曽根康弘内閣の後継として1987年11月に発足し、昭和から平成への激動の過渡期を担った内閣。長年の懸案であった消費税の導入を実現した一方、未曾有の政界汚職であるリクルート事件の引責により退陣へと追い込まれた。

中曽根裁定と「経世会」支配の確立

1987年10月、5年の長期政権を維持した中曽根康弘首相の後継として、自民党内のいわゆる「ニューリーダー」(竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一)の中から、中曽根による指名(中曽根裁定)によって竹下登が選出され、同年11月に竹下登内閣が発足した。

竹下は、かつての最大派閥であった田中派(木曜クラブ)を事実上分裂させ、自身を支持する議員を結集して経世会(竹下派)を結成していた。この経世会は党内圧倒的多数を誇る最大派閥であり、竹下内閣の誕生によって、その後の自民党政治を長きにわたり規定することになる「経世会支配」の黄金期が幕を開けることとなった。

消費税の導入と「ふるさと創生」

竹下内閣の最大の政治的業績となったのが、1988年12月の税制改革関連法案の成立と、それに基づく1989年4月1日からの消費税(税率3%)の導入である。これは、急速に進む高齢化社会の社会保障費確保を見据え、直間比率の見直し(直接税を減らし間接税を増やす)を目指した改革であった。前の中曽根内閣が「売上税」の導入に失敗した教訓を踏まえ、竹下は極めて緻密な国会対策と野党との妥協を図り、強い世論の反発を押し切って導入を断行した。

また、内政においては地方分権と地方活性化を掲げ、全国の約3300の市区町村に対して一律1億円を交付してその使い道を各自治体に委ねる「ふるさと創生事業」を展開した。これはバブル経済の絶頂期にあって、地方への資金還元を狙ったユニークな政策として注目を集めた。

昭和の終焉とリクルート事件による崩壊

竹下内閣の任期中であった1989年1月7日、昭和天皇が崩御した。竹下内閣はこれに伴う「大喪の礼」を執り行い、元号法に基づいて新元号「平成」を閣議決定・発表した。これにより、竹下内閣は昭和最後の、そして平成最初の内閣となった。

しかし、政権の命運を断ったのは、1988年夏から急速に社会問題化していたリクルート社による未公開株譲渡汚職(リクルート事件)であった。この事件では、竹下自身や秘書、さらには宮澤喜一蔵相や安倍晋太郎自民党幹事長ら、政権の中枢を担う有力政治家への巨額の利益供与が発覚した。消費税導入への国民的不満と、リクルート事件による深刻な政治不信が相乗効果となり、内閣支持率は一桁台にまで急落した。1989年度予算の成立と引き換えに竹下は退陣を表明し、同年6月に内閣総辞職を余儀なくされた。この政権崩壊は、その後の自民党の一党優位体制(55年体制)の動揺へと繋がっていくこととなる。

戦後日本政治史-占領期から「ネオ55年体制」まで (中公新書 2752)

占領期から現在に至る政治の潮流を詳細に辿り、戦後日本の統治構造が変遷する過程を冷徹に解き明かす通史の一冊。

竹下登不敗の人間収攬術

権謀術数を駆使して組織をまとめ上げ、永田町の頂点に登り詰めた竹下登の人間関係構築術を説く実用的な政治家の書。

最終更新:2026年6月20日 @ 14:54

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