竹下登内閣 (たけしたのぼるないかく)
【概説】
中曽根康弘内閣の後継として1987年11月に発足し、昭和から平成への激動の過渡期を担った内閣。長年の懸案であった消費税の導入を実現した一方、未曾有の政界汚職であるリクルート事件の引責により退陣へと追い込まれた。
中曽根裁定と「経世会」支配の確立
1987年10月、5年の長期政権を維持した中曽根康弘首相の後継として、自民党内のいわゆる「ニューリーダー」(竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一)の中から、中曽根による指名(中曽根裁定)によって竹下登が選出され、同年11月に竹下登内閣が発足した。
竹下は、かつての最大派閥であった田中派(木曜クラブ)を事実上分裂させ、自身を支持する議員を結集して経世会(竹下派)を結成していた。この経世会は党内圧倒的多数を誇る最大派閥であり、竹下内閣の誕生によって、その後の自民党政治を長きにわたり規定することになる「経世会支配」の黄金期が幕を開けることとなった。
消費税の導入と「ふるさと創生」
竹下内閣の最大の政治的業績となったのが、1988年12月の税制改革関連法案の成立と、それに基づく1989年4月1日からの消費税(税率3%)の導入である。これは、急速に進む高齢化社会の社会保障費確保を見据え、直間比率の見直し(直接税を減らし間接税を増やす)を目指した改革であった。前の中曽根内閣が「売上税」の導入に失敗した教訓を踏まえ、竹下は極めて緻密な国会対策と野党との妥協を図り、強い世論の反発を押し切って導入を断行した。
また、内政においては地方分権と地方活性化を掲げ、全国の約3300の市区町村に対して一律1億円を交付してその使い道を各自治体に委ねる「ふるさと創生事業」を展開した。これはバブル経済の絶頂期にあって、地方への資金還元を狙ったユニークな政策として注目を集めた。
昭和の終焉とリクルート事件による崩壊
竹下内閣の任期中であった1989年1月7日、昭和天皇が崩御した。竹下内閣はこれに伴う「大喪の礼」を執り行い、元号法に基づいて新元号「平成」を閣議決定・発表した。これにより、竹下内閣は昭和最後の、そして平成最初の内閣となった。
しかし、政権の命運を断ったのは、1988年夏から急速に社会問題化していたリクルート社による未公開株譲渡汚職(リクルート事件)であった。この事件では、竹下自身や秘書、さらには宮澤喜一蔵相や安倍晋太郎自民党幹事長ら、政権の中枢を担う有力政治家への巨額の利益供与が発覚した。消費税導入への国民的不満と、リクルート事件による深刻な政治不信が相乗効果となり、内閣支持率は一桁台にまで急落した。1989年度予算の成立と引き換えに竹下は退陣を表明し、同年6月に内閣総辞職を余儀なくされた。この政権崩壊は、その後の自民党の一党優位体制(55年体制)の動揺へと繋がっていくこととなる。