PKO協力法
【概説】
1992年(平成4年)に宮沢喜一内閣のもとで制定された、自衛隊の海外派遣(PKOへの参加)を初めて可能にした法律。正式名称を「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」という。冷戦終結後の新たな国際情勢のなかで、戦後日本の安全保障政策における重大な転換点となった。
制定の背景と「湾岸ショック」
PKO協力法が制定される直接的な契機となったのは、1990年のイラクによるクウェート侵攻に端を発する湾岸危機および1991年の湾岸戦争である。当時、冷戦の終結に伴い、国際紛争への対応策として国連を中心とした多国籍軍の役割が重視されていた。日本政府は多国籍軍に対して総額130億ドルに上る巨額の財政支援を行ったが、自衛隊の派遣など「人的な貢献」を行わなかった。
その結果、国際社会からは「資金を出すだけで血の汗を流さない小切手外交」との厳しい批判を浴びた。とりわけ、戦後にクウェート政府がアメリカの新聞等に掲載した感謝広告の国名リストに日本の名が含まれていなかったことは、日本外交における深刻なトラウマ(いわゆる湾岸ショック)となった。この出来事を機に、国内では「資金提供だけでなく、国際社会の平和と安全に対して人的な国際貢献を行うべきだ」という機運が急速に高まったのである。
激しい国会審議と「PKO参加5原則」
海部俊樹内閣のもとで一度は「国連平和協力法案」が廃案となったが、続く宮沢喜一内閣において改めてPKO協力法案が国会に提出された。しかし、日本社会党や日本共産党などの野党は、「海外での武力行使を禁じた日本国憲法第9条に違反する」「過去の侵略戦争の反省に反し、自衛隊の海外派兵への道を開くものである」として猛反発した。国会審議は、野党による「牛歩戦術」が深夜にまで及ぶなど大紛糾となった。
最終的に、自由民主党、公明党、民社党のいわゆる「自公民」の賛成多数によって1992年6月に成立した。法案の成立にあたっては、海外での武力行使への懸念を払拭するため、厳格な参加要件であるPKO参加5原則が規定された。これには、「紛争当事者間の停戦合意の成立」「受け入れ国および紛争当事者の同意」「中立的立場の厳守」「これらの要件が満たされない場合の部隊の撤収」「武器の使用は要員等の生命等の防護のための必要最小限に限る」という条件が含まれ、自衛隊の活動があくまで非軍事的な平和維持活動に限定されることが明示された。
初の海外派遣と活動の実績
法律の施行を受け、同年9月に早くも自衛隊の本格的な海外初派遣が実現した。派遣先は内戦からの復興を目指していたカンボジアであり、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の指揮下で、自衛隊の施設大隊が道路や橋梁の補修などのインフラ整備にあたった。また、文民警察官や選挙監視要員も派遣され、カンボジアの制憲議会選挙の実施に大きく貢献した(活動中に日本の文民警察官1名と国連ボランティア1名が武装勢力に殺害される痛ましい犠牲も生じた)。
カンボジアでの活動実績は国内外で高く評価され、その後、自衛隊はモザンビーク、ゴラン高原、東ティモール、ハイチ、南スーダンなど、世界各地の国連平和維持活動へ継続的に派遣されることとなった。
戦後日本の安全保障政策における歴史的意義
PKO協力法の制定は、日本の戦後史において極めて重要な歴史的意義を持つ。創設以来、日本国内の防衛(専守防衛)と災害派遣を主な任務とし、国土の領域外に出ることをタブー視されてきた自衛隊が、初めて合法的に海外で活動できるようになったからである。
この法律によって「国際貢献」という新たな任務を付与された自衛隊は、次第に国際社会での役割を拡大していくこととなった。PKO協力法は、のちの「周辺事態法(1999年)」や「テロ対策特別措置法(2001年)」、さらに安倍内閣における「平和安全法制(2015年)」へと繋がる、自衛隊の海外活動拡大と安全保障法制の段階的変化の最初の突破口となった法律として位置づけられている。