天智天皇
【概説】
飛鳥時代の第38代天皇。中大兄皇子として大化の改新を主導したのち即位した人物。白村江の戦いでの敗戦を受けて国防体制を強化し、日本初の全国的な戸籍である庚午年籍を作成するなど、古代律令国家の基盤を築いた。
乙巳の変から大化の改新へ
舒明天皇と皇極天皇(のちの斉明天皇)の子として生まれ、即位前は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と称された。645年、中臣鎌足らとともに蘇我入鹿を暗殺し、政治の実権を握っていた蘇我氏本宗家を滅亡に追い込んだ(乙巳の変)。その後、孝徳天皇を擁立して自身は皇太子となり、公地公民制の導入などを目指す政治改革、いわゆる大化の改新を推し進めた。孝徳天皇の没後も、母である斉明天皇のもとで皇太子として実権を握り続けた。
白村江の戦いと未曾有の国防危機
斉明天皇の治世末期である660年、朝鮮半島で百済が唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた。中大兄皇子は百済復興を支援するために朝鮮半島への大規模な出兵を決断したが、663年の白村江の戦いにおいて大敗を喫した。この敗戦は日本にとって、大帝国である唐や新羅による日本列島侵攻の恐怖という未曾有の国家危機をもたらした。これを受け、中大兄皇子は対馬や壱岐、筑紫に防衛部隊である防人(さきもり)や通信施設である烽(とぶひ)を設置した。さらに大宰府の北に水城(みずき)という長大な土塁を築造し、大野城や基肄城(きいじょう)といった朝鮮式山城を築くなど、西日本の国防体制を急ピッチで強化した。
称制と近江大津宮への遷都
661年の斉明天皇の死後、中大兄皇子はすぐには即位せず、皇太子の身分のまま政務を執る称制(しょうせい)を長く続けた。これは対外的な危機管理に専念するためであったと考えられている。667年、飛鳥の地を離れ、防衛に有利で水上交通の便も良い内陸部の近江大津宮(おうみおおつのみや)へ遷都を断行した。そして翌668年、ついに天皇として即位し、天智天皇となった。
庚午年籍の作成と律令国家への歩み
内政面における最大の功績は、670年に日本初となる全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成したことである。白村江の敗戦に伴う国防体制の維持には、人民を正確に把握し、徴税と兵力動員を確実に行うことが不可欠であった。庚午年籍はその後の氏姓制度の根本台帳として長く重視され、永久保存が義務付けられた。また、同時期に日本初の法典とされる近江令(おうみりょう)を制定したとも伝えられており、これらの政策は次代以降の中央集権的な律令国家形成に向けた重要な土台となった。
崩御と壬申の乱への波及
強権をもって急進的な国家改造を進めた天智天皇であったが、671年に崩御した。大土木工事や急激な政治改革への反発は広く鬱積しており、さらに同母弟である大海人皇子(のちの天武天皇)と、自身の子である大友皇子との間に深刻な後継者争いを残すこととなった。これが天智天皇の死の翌年、古代日本において最大規模の内乱である壬申の乱(672年)を引き起こす直接的な原因となったのである。