国・郡 (くに・ぐん)
【概説】
大化の改新から律令国家の形成期にかけて整備された、地方を統治するための基本となる行政区画。それまでの国造などが支配した在地秩序を再編し、中央集権的な地方支配体制を確立するために設けられた制度。
「評」から「郡」への変遷と木簡の発見
646年に発布されたとされる『改新の詔』には、地方行政区画として「国・郡」を設置することが記されている。しかし近年の歴史学・考古学の研究により、大化の改新の時点で即座にこの制度が確立したわけではないことが明らかになっている。
とりわけ、各地の遺跡から出土した木簡の分析により、701年の大宝律令制定以前は「郡」ではなく「評(ひょう/こおり)」という漢字が使われていたことが判明した。天武・持統朝期に進められた地方支配の単位である「評」が、大宝律令の完成によって「郡」へと改称・統一され、これにより国・郡・里(のちに郷)という三段階の地方行政組織が法的に完成することとなった。
国司・郡司の二重統治と在地の再編
国・郡の行政区画には、それぞれ中央から派遣される国司(こくし)と、現地の有力豪族から任用される郡司(ぐんじ)が配置された。この二重の統治構造が律令制地方支配の最大の特徴である。
国司は中央の貴族(官人)から任命され、任期を終えると帰京する官僚であった。これに対し、郡司はかつての国造(くにのみやつこ)などの在地首長層が世襲的に任命される終身官であった。国司が徴税や軍事、裁判などの大方針を決定し、実務や民衆の直接的な掌握は在地に影響力を持つ郡司が担うという分業体制をとることで、朝廷は遠隔地への支配を実質的に浸透させることに成功した。
公地公民制のインフラとしての歴史的意義
国・郡の画定は、それまでの氏族や豪族による私的な土地・人民支配(部民制や屯倉・田荘など)を解体し、公地公民制を具現化するための極めて重要なインフラであった。
この行政区画を基準として戸籍や計帳が作成され、それに基づいて民衆に土地を分け与える班田収授法が実施された。また、地方の特産物を貢納させる租・庸・調などの税制も、国・郡を媒介にして機能した。このように、国・郡制の整備は単なる地理的な境界設定にとどまらず、古代日本における天皇を中心とした律令国家の財政・軍事基盤を支える屋台骨となったのである。