第五福竜丸
【概説】
1954年、太平洋のビキニ環礁付近で操業中、アメリカ軍の水爆実験に遭遇し、放射性降下物(死の灰)を浴びて乗組員が被爆した日本のマグロ漁船。この事件は広島・長崎に次ぐ「三度目の被爆」として日本国内に強い衝撃を与え、大規模な原水爆禁止運動へと発展する歴史的契機となった。
ビキニ環礁での水爆実験と「死の灰」
1954年3月1日、アメリカ軍はマーシャル諸島のビキニ環礁において、広島に投下された原子爆弾の約1000倍の威力を持つとされる水素爆弾の実験(キャッスル作戦・ブラボー実験)を実施した。当時、静岡県焼津港所属の遠洋マグロ漁船であった第五福竜丸(乗組員23名)は、アメリカがあらかじめ設定していた危険水域の外側で操業していた。
しかし、爆発の規模がアメリカ軍の予想をはるかに上回ったため、サンゴ礁の粉砕物と強烈な放射性物質が混ざった白い灰、いわゆる「死の灰」が広範囲に降り注いだ。第五福竜丸の船体や乗組員はこの灰を大量に浴びることとなり、帰港後に乗組員全員に急性放射線症の症状が現れたことで、被爆の事実が明るみに出た。
久保山愛吉の死と社会への衝撃
乗組員たちは直ちに東京の病院へ移送され治療を受けたが、同年9月23日、無線長の久保山愛吉(当時40歳)が「原水爆の被害者は、私を最後にしてほしい」という言葉を残して死去した。彼の死は、日本国民に原水爆の恐怖をまざまざと見せつける結果となった。
また、第五福竜丸だけでなく、同時期に太平洋で操業していた多くの漁船も放射能汚染の被害を受けていたことが発覚した。水揚げされたマグロから放射線が検出されて大量に廃棄される事態(いわゆる原爆マグロ騒動)が起き、食生活への不安から日本国内はパニックに陥った。これにより、核実験による放射能汚染は、単なる軍事問題ではなく、国民の生命と生活を直接脅かす深刻な社会問題として広く認識されるようになった。
冷戦下の政治的対応と日米関係
当時、冷戦が激化する中でアメリカはソ連に対抗するため核抑止力の強化を急いでおり、第五福竜丸事件が日本の反米運動や共産主義陣営への接近につながることを強く警戒した。アメリカ側は当初、日本側の調査に非協力的であり、乗組員がスパイであった可能性を示唆するなど、責任を回避するような姿勢を見せた。
一方の日本政府(吉田茂内閣)も、アメリカとの関係悪化を懸念して事態の早期収拾を図った。最終的に1955年1月、アメリカが日本政府に対して「慰謝料」として200万ドル(当時のレートで約7億2000万円)を支払い、日本政府はアメリカの法的な賠償責任を追及しないという形で政治的決着(完全解決)が図られた。
原水爆禁止運動の歴史的契機
政府間の政治的妥協とは裏腹に、この事件に対する国民の怒りと不安は収まることがなかった。東京・杉並区の主婦たちによる水爆禁止を求める署名運動を皮切りに、全国各地で草の根の運動が急速に広がり、短期間で約3000万人以上(当時の日本の有権者数の過半数)の署名が集まった。
このうねりは、翌1955年8月の広島における第1回原水爆禁止世界大会の開催へと結実した。第五福竜丸事件は、日本における原水爆禁止運動を出発させ、核兵器の廃絶を求める声を国際社会に向けて発信する決定的な契機となったのである。現在、第五福竜丸の船体は東京都江東区の夢の島公園にある「東京都立第五福竜丸展示館」に保存されており、核兵器の非人道性と平和の尊さを後世に伝え続けている。