吉野作造 (よしのさくぞう)
【概説】
大正時代の日本を代表する政治学者、思想家。東京帝国大学教授として雑誌『中央公論』で「民本主義」を提唱し、大正デモクラシーの理論的指導者として普通選挙運動や政党政治の発展に多大な影響を与えた。
欧米留学と政治学者としての歩み
1878年、宮城県に生まれた吉野作造は、東京帝国大学法科大学政治学科に進学し、政治学者の小野塚喜平次に師事した。卒業後、中国に渡り袁世凱の長男の家庭教師を務めた後、1910年から3年間にわたり欧米へ留学した。この留学期間中、彼はヨーロッパにおける民主主義の成熟と、第一次世界大戦前夜の緊迫した国際情勢を目の当たりにした。特に、労働運動や社会政策が現実の政治に反映されている西洋の実態に触れたことは、帰国後の彼の思想形成に決定的な影響を与えた。1914年に帰国した吉野は東京帝国大学教授に就任し、教壇に立つとともに盛んな言論活動を開始することになる。
「民本主義」の提唱とその理論的背景
1916年(大正5年)、吉野は総合雑誌『中央公論』において、歴史的論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表した。ここで彼は、デモクラシー(Democracy)を「民主主義」ではなく「民本主義」と翻訳・定義した。当時の日本は天皇主権を定めた大日本帝国憲法下であり、「主権在民」を意味する「民主主義」という言葉は国体(天皇制)と真っ向から対立し、弾圧の対象となる危険性があった。そこで吉野は、主権の所在(君主か人民か)を問う法理的な議論は棚上げし、「政治の目的は一般民衆の利福にある」こと、そして「政策の決定は一般民衆の意向に従うべきである」という政治運用のあり方こそがデモクラシーの本質であると主張したのである。
この巧みな理論構築により、大日本帝国憲法の枠内であっても民主的な政治が可能であることが示された。そして、民衆の意向を政治に反映させるための具体的な制度的保証として、普通選挙の実現と、議会の多数派が内閣を組織する政党内閣制の確立を強く訴えた。
大正デモクラシーの牽引と実践活動
吉野の「民本主義」は、第一次世界大戦後の世界的民主化の潮流(ウィルソンの十四カ条など)や、国内の急速な資本主義発展に伴う社会問題の噴出といった時代背景と見事に合致し、当時の青年や知識人、労働者階級に熱狂的に受け入れられた。彼はいわゆる大正デモクラシーの理論的指導者として、言論界をリードする存在となった。
吉野の活動は単なる机上の論にとどまらず、実践的な啓蒙活動にも及んだ。1918年には福田徳三ら少壮学者とともに黎明会を結成し、講演会を通じて民主主義思想の普及と社会啓蒙に努めた。また、同年には東京帝国大学の学生であった赤松克麿や宮崎龍介らが結成した学生思想団体新人会の指導にあたり、後の労働運動や社会主義運動を担う多くの青年たちを育成した。これらの活動は普選運動の大きな推進力となり、1925年の普通選挙法成立や、「憲政の常道」と呼ばれる政党政治の定着に決定的な役割を果たした。
晩年の活動と明治文化研究
1924年、吉野は東京帝国大学を辞して東京朝日新聞の論説委員となり、よりジャーナリスティックな立場で言論活動を続けた。昭和に入ると、軍部の台頭やファシズムの足音が近づく中で、無産政党である社会民衆党の結成に関与するなど、大衆の側に立った政治的実践を模索し続けた。
また、晩年の吉野が傾注したのが、日本近代史の実証的研究である。彼は明治時代の政治・文化に関する膨大な一次史料を収集し、宮武外骨らとともに『明治文化全集』を編纂・刊行した。この業績は、今日の日本政治史および近代史研究の重要な基礎を築くものであり、政治学者・啓蒙思想家としてだけでなく、歴史家としても極めて高い評価を与えられている。1933年に55歳で世を去るまで、日本の近代化と民主化に生涯を捧げた知識人であった。