美濃部達吉
【概説】
東京帝国大学教授として「天皇機関説」を大成した大正・昭和期の憲法学者。国家法人説に基づき大日本帝国憲法を解釈し、大正デモクラシー期の政党内閣制を理論的に裏付けた。昭和初期にかけて憲法学の通説として広く支持されたが、のちに軍部や右翼による激しい排撃を受け、不敬罪による告発や著書の発禁処分を受けた。
「天皇機関説」の確立と学説論争
美濃部達吉は東京帝国大学で憲法学を修め、ヨーロッパ留学を経て、ドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックらが提唱した国家法人説を大日本帝国憲法の解釈に導入した。国家法人説とは、統治権という権利の主体はあくまで「国家」という法人にあり、君主(天皇)はその国家の最高機関として、憲法の規定に従って統治権を行使するという考え方である。これが天皇機関説である。1912年(大正元年)、美濃部が著書『憲法講話』などでこの学説を展開すると、同じ東京帝国大学教授であった上杉慎吉は、天皇自身が絶対的な主権者であるとする天皇主権説(君権学派)の立場から猛烈に反発し、両者の間で激しい学説論争が交わされた。
政党内閣制の理論的支柱への昇華
美濃部の天皇機関説は、単なる法解釈の枠を超えて現実の政治状況に極めて大きな影響を与えた。天皇が国家の最高機関として憲法に従い統治を行うのであれば、その意思決定は内閣などの輔弼(ほひつ)機関や、国民の代表である帝国議会などの協賛機関の意見を重んじて行われるべきであるという論理が導き出される。これは、議会の多数派が内閣を組織する政党内閣制(いわゆる「憲政の常道」)を憲法上正当化する強力な理論的支柱となった。大正デモクラシーのうねりの中で天皇機関説は学界のみならず政党政治家や官僚の間でも広く支持を集め、高等文官試験(現在の国家公務員総合職試験)の正解とされるなど、昭和初期にかけて国家の憲法解釈における確固たる通説としての地位を築いた。
天皇機関説事件と国体明徴運動
しかし、1930年代に入り政党政治が衰退し、軍部の台頭と右翼勢力の活発化が進むと、状況は一変する。1935年(昭和10年)、貴族院議員となっていた美濃部は、議会において右翼や退役軍人出身の議員らから「天皇を機関に例えるのは不敬極まりない」として激しい非難を浴びた。いわゆる天皇機関説事件である。軍部や右翼勢力はこれを好機と捉え、国体明徴運動を大々的に展開して当時の岡田啓介内閣に圧力をかけた。その結果、政府は二度にわたる「国体明徴声明」を出して天皇機関説を公式に異端の説として排除した。美濃部自身も不敬罪で告発されて貴族院議員の辞職を余儀なくされ、『憲法撮要』をはじめとする彼の主要な著書は発売禁止処分となった。この事件は、大正デモクラシーを支えた自由主義的な立憲思想が完全に圧殺され、日本がファシズム体制へと傾倒していく決定的な転換点となった。
戦後における復権と日本国憲法への関与
第二次世界大戦の敗戦後、軍国主義が崩壊すると美濃部は名誉を回復した。彼は枢密顧問官に任命され、政府の憲法問題調査委員会(松本委員会)の顧問として戦後の憲法改正作業に関与することとなる。しかし、美濃部自身は「明治憲法の民主的な運用(天皇機関説)によって戦後の民主化にも十分対応可能である」と考えており、天皇の地位を根本から変え、国民主権を明記した新憲法(日本国憲法)の制定には消極的であった。そのため、枢密院における日本国憲法草案の採決に際しては、彼一人だけが反対票を投じている。かつて最も進歩的とされ軍部から弾圧された自由主義的憲法学者が、時代の急激な変化の中では相対的に保守的な立場に回ったことは、日本の近代憲法史における象徴的な出来事として評価されている。