詔勅の乱用

第3次桂内閣が、海軍大臣の就任拒否を抑えたり、議会を停会させたりするために天皇の権威(天皇の命令)をたびたび利用したことを何と批判したか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
呉 (三国)(Wikipedia)

詔勅の乱用 (しょうちょくのらんよう)

1912〜1913年

【概説】
大正政変期において、第3次桂内閣が自らの政治的危機を乗り切るために天皇の命令(詔勅)を強引に引き出し、政治的に利用した手法。憲政の常道に反する「天皇の政治利用」として激しい世論の反発を招き、第一次憲政擁護運動を爆発させる契機となった。

宮中と府中の混淆と第3次桂内閣の発足

1912(大正元)年12月、陸軍の2個師団増設要求が拒絶されたことを契機に、上原勇作陸相が単独辞職し、第2次西園寺公望内閣は総辞職に追い込まれた。後継首相に推薦されたのは、元老であり、当時は内大臣兼侍従長として大正天皇を補佐する宮中の最高要職にあった桂太郎であった。

桂は宮中から首相(府中)へと転身したが、この異例の転身は「宮中と府中の混淆(宮中による政治介入)」として世論の強い反発を招いた。さらに、内閣組織の段階から、桂は自らの都合の良いように天皇の権威を利用し始めることとなる。

なりふり構わぬ「優詔」の降下

政権発足直後から、桂は野党や海軍からの猛烈な抵抗に直面した。陸軍に対抗する海軍が海軍大臣の供出を拒むと、桂は大正天皇に働きかけ、現職の海軍大臣であった斎藤実を留任させるための詔勅(優詔)を引き出して海軍を屈服させた。

さらに、立憲政友会と立憲国民党が「閥族打破・憲政擁護」を掲げて内閣不信任案を提出しようとすると、桂は議会をたびたび停会させ、政友会総裁の西園寺公望に対して不信任案を撤回するように命じる詔勅を下させた。このように、本来は国家の重大局面にのみ発せられるべき天皇の命令を、政権延命のための私的な防壁として連発した一連の行為が「詔勅の乱用」と批判された。

「玉座を胸壁とする」批判と桂内閣の崩壊

この強硬な姿勢は、議会やジャーナリズムのみならず、一般民衆の激しい怒りを買った。立憲国民党の犬養毅や立憲政友会の尾崎行雄らは第一次憲政擁護運動を展開し、尾崎は議会において桂を「彼らは常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとす」と猛烈に糾弾した。

西園寺公望は天皇の詔勅に従おうとしたものの、党内の強硬派を抑えきれずに総裁辞任へと追い込まれた。頼みの詔勅すら効果を失い、怒れる民衆が議事堂や政府系新聞社を取り囲む中で、桂内閣はなす術なく総辞職(大正政変)へと追い込まれた。この事件は、天皇の権威を用いた強権政治が、もはや高まる民主主義的世論(大正デモクラシー)の前には通用しなくなったことを示す象徴的な出来事となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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