汎スラブ主義 (はんすらぶしゅぎ)
【概説】
ロシアの支援を背景に、バルカン半島のセルビアなどが中心となってスラブ系民族の連帯と統一、国家の独立を目指した思想。19世紀半ばから台頭し、第一次世界大戦の勃発や東欧の国際秩序再編に決定的な影響を与えた。
ロシアの南下政策と汎スラブ主義の台頭
汎スラブ主義は、19世紀前半にオーストリア帝国やオスマン帝国の支配下にあった東欧・バルカン半島の非自立スラブ系諸民族の間で、民族意識の高揚とともに誕生した。当初は言語や文化の共通性を重視する学術的・文化的な連帯運動であったが、次第に政治的・軍事的な独立と統一を目指す運動へと変質していった。この運動を自国の権益拡大に最大限利用したのが、不凍港の獲得を目指すロシア帝国である。ロシアは、バルカン半島における影響力を強めるため、自国をスラブ系民族の「盟主」および「保護者」と位置づけ、オスマン帝国からの独立を望むスラブ系諸民族を強力に支援した。これにより、ロシアはバルカン半島への進出を図る南下政策を推し進め、オーストリア=ハンガリー帝国との対立を深めていくこととなった。
「ヨーロッパの火薬庫」と第一次世界大戦への道
20世紀初頭、バルカン半島はオスマン帝国の衰退に伴い「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる緊迫した情勢を迎えた。特に、ゲルマン民族の優位と東方進出を掲げる汎ゲルマン主義を推進するオーストリア=ハンガリー帝国と、ロシアの後援を受けて「大セルビア」の実現を目指すセルビア王国との対立が激化した。1908年のオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合は、セルビア側のナショナリズムを決定的に刺激した。この緊張状態のなか、1914年にサライェヴォを訪れたオーストリア皇太子夫妻がセルビア人青年によって暗殺されるサライェヴォ事件が発生した。この事件を契機に、ロシア・フランス・イギリス(協商国)とドイツ・オーストリア(同盟国)を巻き込む第一次世界大戦が勃発し、汎スラブ主義は世界大戦を引き起こす最大の導火線となった。
大正期日本への影響と国際情勢の変容
日本が明治から大正へと移行した時期、汎スラブ主義に端を発した第一次世界大戦の勃発は、日本の外交と運命を大きく揺り動かした。日本は日英同盟を口実に連合国側として参戦し、ドイツ領であった中国の山東半島や南洋諸島へと進出するなど、東アジアにおける自国の地歩を固めることに成功した。しかしその一方で、1917年に大戦の長期化と疲弊からロシア革命が勃発し、ロマノフ朝の帝国主義体制が崩壊した。新たに誕生したソビエト政権は、他民族への支配や抑圧を否定する立場をとったため、帝国主義的な対外拡張政策と結びついていた汎スラブ主義は一転して後退を余儀なくされた。大正期の日本におけるロシア(ソ連)への警戒感は、かつての汎スラブ主義的な領土野心から、共産主義思想の流入(赤化)へと移行していくこととなる。