サラエボ事件(サライェヴォ事件)
【概説】
1914年(大正3年)6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子夫妻が、ボスニアの州都サラエボでセルビア系民族主義者の青年に暗殺された事件。この暗殺がヨーロッパ列強の複雑な同盟関係に火をつけ、第一次世界大戦勃発の直接的な引き金となった。日本も日英同盟を理由に参戦し、大正期の政治経済に多大な影響を及ぼすこととなった。
パン=スラブ主義と「ヨーロッパの火薬庫」
19世紀末から20世紀初頭にかけて、バルカン半島はオスマン帝国の衰退に伴い、列強の領土的野心と現地の民族主義が複雑に絡み合う「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる一触即発の地帯であった。とくに、ゲルマン系の拡大を目指すオーストリア=ハンガリー帝国の「パン=ゲルマン主義」と、ロシアを後ろ盾としてセルビアが主導する「パン=スラブ主義」が激しく衝突していた。
1908年の青年トルコ革命に乗じて、オーストリアがスラブ系住民の多いボスニア・ヘルツェゴビナ両州を一方的に併合すると、同地域におけるセルビア人や隣国セルビアの反オーストリア感情は頂点に達し、急進的な民族主義運動が水面下で過激化していく土壌が形成された。
運命の日と暗殺の経緯
1914年(大正3年)6月28日、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナント大公とその妻ゾフィーは、軍事演習の視察のためボスニアの州都サラエボ(サライェヴォ)を公式訪問した。しかし、この6月28日は奇しくもセルビアの民族的祝日である「聖ヴィドの日(コソボの戦いの記念日)」であったため、オーストリアによる支配を見せつけるような訪問はセルビア系住民の強い反発を招いた。
視察の車列が市街地を進む中、急進的な秘密結社「黒手組」の支援を受けたセルビア系青年ガヴリロ=プリンツィプが車に接近して銃弾を放ち、皇太子夫妻を暗殺した。これが世界史の歯車を大きく狂わせたサラエボ事件である。
連鎖する宣戦布告と第一次世界大戦の勃発
事件後、オーストリアは暗殺事件をセルビア政府の陰謀と断定し、到底受け入れがたい強硬な最後通牒を突きつけた上で、同年7月にセルビアへ宣戦布告した。この局地的な衝突が導火線となり、当時のヨーロッパに張り巡らされていた複雑な「同盟」と「協商」のネットワークが連鎖的に発動することとなる。
セルビアを支援するロシアが軍の総動員令を下すと、オーストリアの同盟国であるドイツがロシアおよびその同盟国フランスに対して宣戦を布告。さらに、ドイツ軍が中立国ベルギーを侵犯したことを理由にイギリスもドイツに宣戦した。こうして、バルカン半島の一事件は瞬く間にヨーロッパ全土、ひいては世界中を巻き込む第一次世界大戦へと発展していったのである。
大正時代の日本への波及と歴史的転換
この未曾有の世界大戦は、極東に位置する日本にも甚大な影響を及ぼした。大戦勃発直後の1914年(大正3年)8月、第2次大隈重信内閣は日英同盟の情誼を名目としてドイツに宣戦布告し、連合国側として参戦を決定した。日本軍は中国山東省のドイツ租借地である青島(チンタオ)や、赤道以北のドイツ領南洋諸島をまたたく間に占領した。
日本はこれを機に東アジアにおける権益拡大を図り、1915年に袁世凱政府に対して対華21カ条の要求を突きつけた。また経済面では、ヨーロッパ列強がアジア市場から後退した隙をついて日本の輸出が急増し、重化学工業化が一気に進展する未曾有の大戦景気(成金景気)をもたらすこととなる。遠く離れた地で起きたサラエボ事件は、大正期の日本の政治・外交・経済のあり方を根本から変容させ、その後の国際的地位やアジア太平洋政策の方向性を決定づける歴史的転換点となったのである。