民権自由論
【概説】
明治時代の思想家・植木枝盛によって1879(明治12)年に著された啓蒙書。人民の自由や権利の不可侵性を説き、専制的な政府に対する抵抗権や革命権を肯定した、自由民権運動期における最も急進的な民権論の代表作である。
自由民権運動の進展と植木枝盛の登場
明治10年代、日本の言論界は近代国家のあり方をめぐって激しい議論が交わされていた。板垣退助らによる民撰議院設立建白書の提出(1874年)を契機に始まった自由民権運動は、当初の士族中心の運動から、次第に農民や都市民をも巻き込む広範な国民運動へと発展していく。こうした中、高知の「立志社」で活動した植木枝盛は、ルソーやミルなどの西欧の民主主義思想を精力的に吸収し、独自の人民主権論を構築していった。彼は単に欧米の翻訳にとどまらず、日本の実情に即した平易な言葉で、広く一般大衆に向けて自由と権利の尊さを訴えかける必要性を強く感じていた。
『民権自由論』の核心――「抵抗権」と「革命権」の主張
1879(明治12)年に刊行された『民権自由論』は、平仮名交じりの読みやすい文体で書かれ、広く読者層を獲得した。本書において枝盛は、「政府は人民のためにあるものであり、人民が政府のためにあるのではない」という徹底した人民主権の立場を鮮明にした。そして、もしも政府が暴政を行い、人民の自由や権利を不当に侵害するならば、人民にはその政府に服従しない権利(抵抗権)があり、さらにはその政府を打倒して新たな政府を組織する権利(革命権・顛覆権)があると力強く主張した。これは、明治政府による言論弾圧(新聞紙条例や集会条例など)が強まる中、政府の専制化に対抗するための論理的武器を民衆に与える画期的な試みであった。
私擬憲法への影響と歴史的意義
『民権自由論』で展開された急進的な思想は、1881(明治14)年に植木枝盛自身が起草した私擬憲法『東洋大日本国国憲案』へと結実する。この憲法案には、一院制の採用や広範な人権保障、そして連邦制の志向とともに、抵抗権や革命権(顛覆権)が明確に条文として盛り込まれていた。枝盛の説いた思想は、1880年代半ばに各地で発生した激化事件(加波山事件や秩父事件など)において、武装蜂起に立ち上がった民権派たちの精神的支柱ともなった。日本の近代思想史において、最も徹底した民主主義と人権の尊重を唱えた『民権自由論』は、明治の啓蒙思想の頂点を示すものとして極めて高い歴史的価値を有している。