東洋大日本国国憲按 (とうようだいにほんこくこっけんあん)
【概説】
明治時代中期の自由民権運動期に、民権派の思想家・植木枝盛が起草した私擬憲法。基本的人権の徹底した保障に加え、政府の暴政に対する国民の「抵抗権」や「革命権」を明記した、数ある私擬憲法の中で最も急進的かつ民主的な草案。当時の自由民権思想の到達点を示す一級の歴史史料である。
自由民権運動の高揚と私擬憲法の草の根的展開
明治10年代に入ると、板垣退助らによる国会開設運動が全国的な盛り上がりを見せ、政府が憲法制定や国会開設をどのように行うべきかという議論が活発化した。特に1881年(明治14年)の明治十四年の政変によって、政府が「10年後の国会開設」を公約すると、民間では自らの手で理想の憲法案を構想する私擬憲法の作成ブームが起こった。交詢社による「私擬憲法案」や、五日市町(現在の東京都あきる野市)で発見された「五日市憲法草案」など、都市から農村に至るまで多様な草案が作られたが、その中でも土佐(高知県)の民権結社「立志社」の論客であった植木枝盛が起草したのが、この「東洋大日本国国憲按」である。
「抵抗権・革命権」の明記と徹底した人権思想
「東洋大日本国国憲按」の最大の特徴は、徹底的な主権在民志向と人権保障の追求にある。全220条からなるこの草案では、国民の自由と権利を幅広く認めており、とりわけ第70条および第72条において、政府が国民の自由を侵害し、憲法に違背した場合には、国民に「抵抗権(服従せざるの権)」や政府を転覆して新政府を樹立する「革命権(これを覆して新に政府を建設するの権)」があることを明言した。これはイギリスの哲学者ジョン・ロックの社会契約説やフランス革命期の思想の影響を強く受けたものであり、君権の絶対化を目指していた明治政府の主流派にとっては受け入れがたい、極めて先駆的かつ挑戦的な内容であった。
連邦制の志向と大日本帝国憲法との対比
さらに本憲法按は、一院制の「立法院」による強い立法権を定めたほか、地方自治を重視し、国家の形態として一種の連邦制(各州の自立を認める分権国家)を構想していた点でも特筆される。のちに政府主導で制定された大日本帝国憲法(1889年発布)が、天皇に主権と統帥権などの大権を集中させる中央集権的・欽定憲法であったのに対し、「東洋大日本国国憲按」は地方分権と国民主権を極限まで追求した対極の存在であった。結果としてこの草案が日の目を見ることはなかったが、戦後の日本国憲法における平和主義や基本的人権の尊重、地方自治の尊重といった理念の「先駆」として、昭和期以降の歴史研究において極めて高く評価されることとなった。