岸田(中島)俊子 (きしだなかじまとしこ)
【概説】
明治時代に活躍した、日本最初の女性民権演説家。自由民権運動の高揚期において女性の権利拡張や地位向上を鋭く訴え、「函入娘」などの演説を通じて全国の女性たちに多大な影響を与えた先駆的女性解放運動家である。
宮中出仕から自由民権運動への転身
京都の裕福な商家に生まれた岸田俊子は、幼少期から漢学や和歌に優れた才能を発揮した。その才気煥発ぶりが認められ、1879年(明治12年)には民間出身者として初めて宮中に出仕し、皇后(のちの昭憲皇太后)に近侍する女官となった。しかし、因習に囚われた保守的な宮中生活に疑問を抱き、わずか2年弱で病気を理由に辞職した。
下野した俊子は、当時全国的に高まりを見せていた自由民権運動に接し、その進歩的な思想に深く共鳴した。特に高知県などの土佐派民権家たちとの交流を通じて、女性の自立と権利獲得のためには政治的な発言が必要不可欠であると確信するにいたり、自らも弁士として壇上に立つ決意を固めた。
「函入娘」演説と家父長制への批判
1882年(明治15年)、俊子は大阪で行われた政談演説会において、有名な「函入娘(はこいりむすめ)」と題する演説を行った。彼女はこの演説において、従来の日本の家庭における女子教育を「娘を箱の中に厳重に閉じ込め、知性や自立心を奪うもの」として激しく批判した。そして、女性に適切な教育を施し、一人の人間として社会に送り出すことこそが、結果として国家の発展につながると訴えた。
俊子の美貌と、それとは対照的な理路整然とした熱い弁舌は、当時の社会に大きな衝撃を与えた。翌年には滋賀県大津での演説中に「草生い茂る婦女の道」という演説を行い、演説内容が不穏であるとして警官によって解散させられ、俊子自身も一時拘束された。これは、日本の女性が政治的発言によって公権力から検挙された先駆的な事例となった。
中島信行との結婚と「湘煙」としての文筆活動
1884年(明治17年)、俊子は自由民権運動の指導者の一人であり、のちに初代衆議院議長となる中島信行と結婚した。これ以降、彼女は「中島俊子」として、また文筆家としては中島湘煙(しょうえん)の筆名で活動するようになる。
明治政府による集会条例の強化や保安条例の制定などにより、自由民権運動が衰退期に入ると、俊子の活動の中心は街頭演説から文筆へと移行した。彼女は『女学雑誌』などに多くの論説や小説、随筆を寄稿し、日本の近代化における女子教育の重要性や、男女同権を基礎とした新しい家族観を提示し続けた。38歳の若さで肺結核により没したが、彼女が蒔いた女性解放の種は、のちの明治後期の婦人運動や大正デモクラシー期へと引き継がれていくこととなった。