立憲改進党

1882年、政府を追放された大隈重信を党首として結成され、イギリス流の議院内閣制(主権在君)を主張した政党は何か?
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立憲改進党

1882年〜1896年

【概説】
1882年(明治15年)、明治十四年の政変で下野した大隈重信を党首(総理)として結成された政党。フランス流の急進主義をとった自由党に対し、イギリス流の立憲君主制や議院内閣制を理想とし、穏健な漸進主義を主張した。自由民権運動の一翼を担い、のちの初期帝国議会においても「民党」として藩閥政府と対峙し、日本の政党政治の基礎を築いた。

結成の背景と明治十四年の政変

1881年(明治14年)、政府内において国会開設の時期や憲法のあり方をめぐり激しい対立が生じた。早期の国会開設とイギリス流の議院内閣制の導入を主張した参議の大隈重信は、プロイセン流の君主大権を重んじる伊藤博文ら薩長藩閥勢力と対立し、明治十四年の政変によって政府から追放された。政府はこれと同時に「国会開設の勅諭」を発布し、10年後の1890年に国会を開設することを国民に約束した。

下野した大隈は、来たるべき国会開設に向けて自らの政治理念を実現すべく、1882年(明治15年)3月、小野梓、矢野龍渓、犬養毅、尾崎行雄ら官僚出身者や知識人を中心に立憲改進党を結成した。

イギリス流の漸進主義と支持基盤

立憲改進党の政治的立場は、フランス流の急進的自由主義を掲げた板垣退助らの自由党とは対照的であった。大隈らは、急激な変革や暴力的な実力行使を排し、イギリス流の議院内閣制に基づく合法的で穏健な改革、すなわち漸進主義を主張した。

この思想的背景から、支持基盤も自由党と明確に異なっていた。自由党が主に地方の豪農や農村の青年層を支持基盤としたのに対し、立憲改進党は都市部の商工業者(資本家層)や知識人、ジャーナリスト、教員などの都市中間層から強い支持を集めた。特に、大隈と関係の深かった三菱財閥(岩崎弥太郎)から資金面での援助を受けていたことは、同党の都市的・ブルジョワ的な性格を象徴している。

自由党との対立と政府の弾圧

国会開設を目指す自由民権運動において、立憲改進党と自由党はともに「民党」として協力すべき立場にあったが、思想や支持基盤の違いから両者は激しく対立した。政府はこの対立に乗じて巧妙な分断工作を図った。例えば、政府が渋沢栄一らを通じて設立した「共同運輸会社」と、立憲改進党の強力なスポンサーである三菱の「郵便汽船三菱会社」との間で激しい海運競争が勃発した際、自由党は政府側の共同運輸会社を応援して三菱と改進党を激しく攻撃した。

さらに、政府による集会条例の強化などの厳しい弾圧や、自由党急進派による激化事件が頻発するなか、1884年(明治17年)に自由党が解党へと追い込まれる。同年、立憲改進党内でも運動の進め方を巡って内紛が生じ、大隈重信や副島種臣らが脱党したため、党は事実上の休眠状態に陥ることとなった。

初期帝国議会における活動と解党

1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙を前に、立憲改進党は再建された。開設された初期帝国議会においては、再建された立憲自由党(のちの自由党)とともに「民党」を形成し、「民力休養・政費節減」をスローガンに掲げて超然主義をとる藩閥政府(吏党)と激しく対立した。

その後、条約改正問題など外交方針を巡って政府との対立や妥協を繰り返したが、日清戦争後の1896年(明治29年)、第2次松方正義内閣に大隈重信が外務大臣として入閣し、政府と提携するにあたり、立憲改進党は他の中小政党と合同して進歩党へと改組された。ここに立憲改進党としての歴史的役割は終えたが、のちに自由党系と合同して日本初の政党内閣(隈板内閣)を実現する憲政党へと繋がるなど、近代日本の政党政治の源流として大きな足跡を残した。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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