亀山天皇 (かめやまてんのう)
【概説】
鎌倉時代中期の第90代天皇であり、のちの南北朝分裂における大覚寺統の祖。父である後嵯峨上皇の寵愛を受けて即位したが、この皇位継承が兄の後深草天皇(持明院統の祖)との決定的な対立を生んだ。この兄弟の確執を発端とする両統の対立は、鎌倉幕府の介入を招き、のちの室町時代における南北朝動乱へとつながる日本歴史上の大転換点となった。
皇位継承をめぐる兄・後深草天皇との確執と両統の成立
亀山天皇は、後嵯峨天皇の第七皇子として生まれた。同母兄には第89代の後深草天皇がいたが、父である後嵯峨上皇は、聡明な弟の恒仁親王(亀山天皇)を深く寵愛した。1259年、後嵯峨上皇は後深草天皇を圧迫して退位させ、亀山天皇を即位させた。この強引な皇位交代が、兄弟間に生涯にわたる深い禍根を残すこととなった。
後嵯峨上皇の没後、次の「治天の君(政務を執る上皇)」を誰にするかという問題が発生した際、鎌倉幕府の調停によって亀山天皇による院政の開始と、その子である後宇多天皇の即位が決定した。これに激しく反発した先代の後深草上皇の一派は、のちに持明院統を形成し、対する亀山・後宇多の系統は大覚寺統と呼ばれるようになった。この二つの皇統の並立が、その後の皇位継承争いを泥沼化させる原因となった。
「蒙古襲来」への対応と幕府との関係
亀山上皇の院政期は、日本が未曾有の国難である蒙古襲来(元寇)に直面した時期と重なる。文永の役(1274年)および弘安の役(1281年)の際、亀山上皇は伊勢神宮や石清水八幡宮などの諸社寺に自ら敵国降伏の祈祷を行い、国家の安寧を祈った。このときに捧げたとされる「我が身を以て国難に代えん」という趣旨の祈願文の逸話は、後世まで広く知られることとなった。
しかし、幕府との関係は必ずしも良好ではなかった。1285年に幕府内部で発生した政変(霜月騒動)によって上皇に近い立場にあった有力御家人が失脚すると、上皇の政治的立場は急速に悪化。幕府からの介入を受け、1287年には治天の君の地位を兄の後深草上皇へ譲ることを余儀なくされた。これを機に、幕府の介入による両統迭立(持明院統と大覚寺統が交代で皇位に就く原則)が本格化していくこととなる。
禅宗への帰依と大覚寺統の遺産
政治の実権を失った亀山天皇は、1289年に出家して法皇となった。晩年は精神的な救いを仏法に求め、特に禅宗に深く帰依した。南宋から渡来した禅僧・無関普門(大明国師)を深く信頼し、自身の離宮を禅寺へと改めて南禅寺を創建した。また、大覚寺の復興にも尽力し、これが大覚寺統の拠点として定着した。
亀山天皇がその生涯において形成した「大覚寺統」の血統と意志は、のちに鎌倉幕府を打倒して建武の新政を強行する孫の後醍醐天皇へと受け継がれる。亀山天皇が引き起こした皇位継承問題は、鎌倉幕府の滅亡、そして室町時代を揺るがす約60年間に及ぶ南北朝合一までの長い動乱の直接的な源流となったのである。