天皇親政
【概説】
摂政・関白や幕府などの機関を介さず、天皇自らが政治の実権を握って行う政治体制。日本の歴史上、平安時代の延喜・天暦の治や、鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による建武の新政などが代表的な事例として知られている。
古代から中世への変遷と「親政」の理想化
日本の古代政治においては、律令制の下で天皇が権力を行使する体制が基本とされた。しかし、平安時代中期に入ると藤原北家による摂関政治が確立し、天皇の外戚が摂政・関白として政治の実権を掌握するようになった。こうした中で、有力な外戚を持たない天皇や、摂関家の影響力が相対的に低下した時期に、天皇が自ら主導権を握って国政にあたる期間が存在した。その代表例が、宇多天皇・醍醐天皇・村上天皇の治世である延喜・天暦の治である。これらの時代は、後代の知識人や天皇によって「摂関に左右されない理想的な天皇親政の時代」として美化され、回顧されることとなった。
平安時代末期になると、退位した上皇が実権を握る院政が始まり、さらに鎌倉時代には武家政権である幕府が成立した。朝廷内では治天の君(実質的な朝廷の主宰者)による院政が常態化し、同時に全国的な支配権も徐々に幕府へと移行していったため、在位中の天皇が直接政治の実権を振るう「天皇親政」は、歴史の表舞台から姿を消していった。
後醍醐天皇と建武の新政
鎌倉時代末期から南北朝時代(室町時代初期)にかけて、「天皇親政」の理念を最も強烈に掲げ、実際の政治体制として復活させたのが後醍醐天皇である。彼は「延喜・天暦の治」を究極の理想とし、幕府はもちろんのこと、摂政・関白や、長らく朝廷の慣例となっていた院政すらも否定し、天皇自身に全ての権力が集中する君主専制的な政治体制を目指した。
1333(元弘3)年、後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞ら新興武士層、悪党などの力を結集して鎌倉幕府を滅亡させ、建武の新政を開始した。この新政下では、記録所や雑訴決断所などの実務機関が設置されたものの、最終的な決定権はすべて天皇の綸旨(天皇の命令書)に帰属するとされた。しかし、武士の慣習を無視した性急な制度改革や、恩賞の著しい不公平さ、そして現実離れした公家重視の政策は、倒幕の原動力となった武士たちの強い不満を招いた。結果として、この急進的な天皇親政はわずか数年で瓦解し、足利尊氏による室町幕府の開府と、南北朝の動乱という新たな武家社会の時代へと突入していくこととなった。
近現代における親政理念の復活と実態
建武の新政が頓挫したのち、室町幕府、江戸幕府と武家政権が長く続いたことで、天皇親政は実態を伴わない概念となっていた。しかし、江戸時代後期に尊王論が台頭すると、再び強力な政治的スローガンとして浮上する。1867(慶応3)年の大政奉還とそれに続く王政復古の大号令により、約700年続いた武家政権は終焉を迎え、古代の律令制や建武の新政を模範とした、天皇親政を建前とする明治新政府が誕生した。
もっとも、近代日本における「天皇親政」は、次第に大日本帝国憲法の下での立憲君主制へと形を変えていった。天皇は国家元首にして統治権の総攬者と規定されたものの、実際の政治運営は元老や内閣などの輔弼(ほひつ)機関によって行われるのが常であり、専制君主としての直接的な親政が行われることは極めて稀であった。