大庭景親 (おおばかげちか)
【概説】
平安時代末期の相模国の有力豪族であり、平氏政権の東国支配を支えた武将。治承・寿永の乱の端緒となった石橋山の戦いで挙兵直後の源頼朝を撃破した。しかし、その後に勢力を挽回した頼朝に降伏し、処刑された。
大庭氏の出自と平氏政権との結びつき
大庭氏は鎌倉氏の一族であり、相模国高座郡大庭郷(現在の神奈川県藤沢市周辺)を本拠とした有力な開発領主(在庁官人)であった。景親の父・景宗の代から相模国に強大な勢力を誇っていたが、1159年の平治の乱において、景親は兄の景義とともに源義朝(頼朝の父)に従って参戦した。戦いは義朝側の敗北に終わり、景親は平氏方の捕虜となったが、平清盛の側近である難波経房らの助命嘆願によって命を救われた。この恩義から、景親は平氏の家人として深く結びつくようになり、関東における平氏政権の有力な足がかり(目代の補佐や軍事的支柱)として重用されることとなった。
石橋山の戦いと源頼朝との死闘
1180(治承4)年、以仁王の令旨を奉じた源頼朝が伊豆国で挙兵すると、大庭景親は平氏方の総大将として、伊豆・相模の平氏方武士3000余騎を素早く動員した。豪雨が降りしきる中、景親は相模国の石橋山(現在の神奈川県小田原市)に陣を張り、わずか300騎ほどであった頼朝の軍勢を急襲した(石橋山の戦い)。この戦いで景親は頼朝軍を壊滅に追い込み、頼朝を土肥の「しとどの岩屋」に追い詰める大勝を収めた。この際、同じく平氏方として参陣していた梶原景時が、洞窟に隠れていた頼朝をわざと見逃したという逸話は有名である。
頼朝の再起と景親の最期
石橋山で頼朝を敗走させた景親であったが、頼朝が安房国(千葉県)に逃れて再起を図ると、情勢は一変した。頼朝が東国の有力豪族である千葉常胤や上総広常らを味方につけて大軍を組織し、鎌倉に入ると、それまで景親に従っていた相模や武蔵の武士団の多くが頼朝側へと寝返った。急速に孤立した景親は、平氏の本拠である西国へ逃れようとしたが阻まれ、河村義秀らとともに降伏を余儀なくされた。頼朝に仕えていた兄・大庭景義による助命嘆願も虚しく、景親は片瀬川(固瀬川)の河原で斬首された。景親の敗北と処刑は、東国における平氏勢力の瓦解と、鎌倉幕府へとつながる頼朝の東国支配権の確立を決定づける象徴的な出来事となった。