相模 (さがみ)
【概説】
東海道に位置する令制国の一つで、現在の神奈川県の大部分に相当する地域。平安時代末期から坂東武士団が割拠し、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことで、中世日本の政治・軍事の中心地となった国。
東国の要衝としての地理的特性と武士の台頭
相模国は、足柄峠や箱根峠を越えて関東平野(坂東)へと入る東海道の入り口に位置していた。西は険しい箱根山地、北は丹沢山地、東は東京湾、南は相模湾に面しており、交通の要衝であると同時に防衛上の要害でもあった。この地理的特性から、古代より開発が進み、平安時代中期以降は平良文の流れを汲む坂東平氏や、源氏と結びついた武士団が各地に土着した。特に相模湾沿いや足柄平野、相模野には、三浦氏、中村氏、波多野氏、渋谷氏など、のちに鎌倉幕府を支えることになる有力な開発領主(武士)が割拠し、独自の武力と土地支配権を強めていった。
鎌倉幕府の創設と本拠地・鎌倉の選定
1180年(治承4年)、平氏打倒を掲げて挙兵した源頼朝は、石橋山の戦いで敗れたのち、房総半島を経由して相模国に入った。頼朝が新たな本拠地として選んだのが、相模国東部に位置する鎌倉であった。鎌倉は、頼朝の祖先である源頼義が石清水八幡宮を勧請した(のちの鶴岡八幡宮)源氏ゆかりの地であるだけでなく、三方を山に囲まれ、南が海に面した「天然の要害」であり、防衛に極めて適していた。頼朝は鎌倉に大倉御所を構え、侍所や問注所などを整備して武家政権の基盤を築いた。これにより相模国は、それまでの京都を中心とする畿内に対抗する、東国独自の政治・文化の拠点となった。
鎌倉幕府滅亡後の相模国と小田原の繁栄
1333年(元弘3年)に新田義貞の鎌倉攻めによって鎌倉幕府が滅亡した後も、相模国は東国支配の重要拠点であり続けた。室町時代には関東を統轄する鎌倉府が置かれ、鎌倉公方と関東管領が対立を繰り返す舞台となった。戦国時代に入ると、伊勢盛時(北条早雲)を祖とする後北条氏(小田原北条氏)が相模国に進出し、小田原城を本拠地として関東全域へ勢力を拡大した。小田原は東国最大の城下町として大いに繁栄し、相模国は中世を通じて日本の政治・軍事の最前線であり続けた。江戸時代に入ると、江戸を守る西の防衛線として小田原藩などが置かれ、引き続き重視された。