平安時代初期
【概説】
794年の平安京遷都から9世紀末頃までの、平安時代の前編にあたる時期。桓武天皇や嵯峨天皇ら強力な天皇の主導による律令体制の再編と、国家的な新仏教の受容が進められた。政治的には天皇親政が機能し、文化面では唐風の強い影響下に密教が融合した弘仁・貞観文化が展開した時代である。
律令体制の再建と令外の官の設置
平安時代初期は、形骸化しつつあった律令体制を実情に合わせて再編し、維持しようとする試みが精力的に行われた時期である。794年に山背国へ平安京を遷都した桓武天皇は、長年続いた東北の蝦夷との戦争(征夷)と平安宮の造営という「二大事業」を推進した。しかし、晩年には菅野真道と藤原緒嗣による「徳政論争」を経て、民衆の負担を軽減するためにこれらの事業を中止した。また、地方政治の刷新を図るために国司の交代を厳しく監視する勘解由使(かげゆし)を新設した。
続く嵯峨天皇の時代には、律令の規定にない新しい官職である令外の官(りょうげのかん)が次々と設置された。810年に起きた薬子の変(平城太上天皇の変)を契機に、天皇の秘書官長である蔵人頭(くろうどのとう)が置かれ、さらに京都の治安維持を担う検非違使(けびいし)が創設された。これらの官職は、従来の律令法が定める煩雑な手続きを排し、天皇の意思を迅速に国政に反映させるためのものであった。同時に、基本法である律令を補足・修正する「格(きゃく)」や、施行細則である「式(しき)」を集大成した格式(きゃくしき)の編纂も始まり、法制の現実的な再構築が進められた。
弘仁・貞観文化と平安二宗の成立
この時期の文化は、嵯峨・清和天皇の治世を中心とする弘仁・貞観(こうにん・じょうがん)文化と呼ばれる。宮廷では唐風(中国風)の礼儀や意匠が強く重んじられ、天皇の主導により『凌雲集』などの勅撰漢詩集が編纂された。漢文学の教養は貴族や官僚としての必須条件となり、大学での勉学や私塾の開設が盛んになった。
宗教面においては、奈良時代の国家鎮護の仏教から脱却し、個人の内面や実践を重視する新しい仏教が台頭した。最澄が比叡山に延暦寺を建てて天台宗を開き、空海が高野山や東寺を拠点に真言宗を開いた。これらは総じて密教(平安二宗)と呼ばれ、加持祈祷によって現世の災いを取り除く宗教儀礼として、宮廷貴族の間で急速に受容されていった。美術分野でも、山岳寺院の建立に伴う奥深い本尊の彫刻(木心乾漆像や一本造り)や、神秘的な曼荼羅(まんだら)の流行など、密教美術が独自の発展を遂げた。
政治体制の変容と摂関政治への移行
9世紀後半に入ると、天皇親政を軸とした政治体制に変化が生じる。藤原北家が台頭し、他氏排斥(承和の変や応天門の変など)を通じて、王臣家(皇族や有力貴族)の中で独自の地位を確立していった。866年には藤原良房が人臣として初めて摂政に就任し、さらに9世紀末には藤原基経が関白の地位を確立することとなる。これにより、平安時代初期に維持されていた天皇主導の政治は徐々に姿を消し、摂関家による権力独占(摂関政治)へと移行していくこととなった。