平安時代中期
【概説】
日本の歴史において、10世紀初頭から11世紀後半にかけての約2世紀間にわたる時期。藤原北家による摂関政治が全盛を極め、宮廷では仮名文字を用いた独自の国風文化が花開いた。その一方で、地方政治では律令制が事実上崩壊し、武装した開発領主が武士へと成長していく社会転換期でもあった。
摂関政治の全盛と貴族社会の構造
この時代、中央政界では藤原北家が他氏排斥を進め、天皇の外祖父(母方の祖父)の地位を利用して政治の実権を握る摂関政治を確立した。11世紀前半の藤原道長・藤原頼通の父子の時代にその栄華は頂点に達した。摂関家をはじめとする貴族たちの経済基盤となったのは、地方の有力者が中央の権力者に土地を寄進して税を逃れた寄進地系荘園や、地方を統治する受領(国司)からの莫大な贈り物であった。政治の意思決定は天皇と公卿による合議制で行われたが、実質的には摂関家の意向が強く反映され、形式化・儀式化した宮廷社会が形成された。
国風文化の開花と独自の思想的展開
対外的には、894年に菅原道真の建議などによって遣唐使の派遣が停止(あるいは東アジア情勢の変化により途絶)されたことを契機に、これまでに受容した大陸文化を日本の風土や日本人の感性に合わせて消化・吸収した国風文化が発達した。その最大の画期となったのが、日本語を自由に表記できるかな文字(平仮名・片仮名)の普及である。これにより、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』に代表される優れた女流文学が誕生した。また、仏教界では末法思想の広がりを背景に、極楽浄土への往生を願う浄土教が貴族から庶民へ広く浸透し、藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂をはじめとする優美な阿弥陀堂建築や仏像が数多く生み出された。
地方社会の変容と武士の台頭
華やかな中央の貴族文化の裏側で、地方の支配体制は劇的な変化を遂げていた。律令制による戸籍・班田収授の体制が維持できなくなると、政府は土地(名)を単位として有力農民(田堵)に課税する名体制へと方針を転換した。これにより、現地での徴税権を強めた国司(受領)は私的な富を蓄積し、中には私欲に走って住民と激しく対立する者も現れた。このような治安の乱れや土地をめぐる争いに対抗するため、地方の開発領主たちは自衛のために武装を始め、これが武士の起源となった。10世紀中葉に起きた平将門の乱や藤原純友の乱(承平・天慶の乱)は、中央の軍事力低下を露呈させるとともに、武士の武力が国家の存立にとっても不可欠なものとなる契機となった。