藤原薬子 (ふじわらのくすこ)
【概説】
平城上皇の寵愛を受け、兄の藤原仲成とともに上皇の復権と平城京への再遷都を企てた平安時代初期の女性。嵯峨天皇側との対立(薬子の変)に敗れ、服毒自殺を遂げた。藤原式家の出身であり、彼女の敗北は式家の没落と藤原北家の台頭を決定づける契機となった。
平城天皇の寵愛と尚侍としての権勢
藤原薬子は、桓武天皇の側近として権勢を振るった藤原種継の娘である。はじめは藤原縄主の妻となり三男五女をもうけたが、長女が安殿親王(のちの平城天皇)の東宮に入内した際、親王に付き添ううちに自らも深く寵愛されるようになった。この関係はスキャンダルとなり、一時は父の桓武天皇によって宮中から追放されたものの、806年に平城天皇が即位すると宮中に呼び戻され、内侍司の長官である尚侍(なおのかみ・しょうじ)に任じられた。
薬子は夫の縄主を太宰大弐として九州に遠ざけ、自らの地位を利用して国政に深く介入するようになる。さらに、兄の藤原仲成とともに平城天皇の威光を背景に権勢を拡大し、宮廷内での専横が目立つようになった。これがのちの政治的混乱の火種となったのである。
薬子の変と藤原式家の没落
809年、病に倒れた平城天皇は譲位し、弟の嵯峨天皇が即位した。しかし、平城上皇の病気が回復すると、上皇の復権を望む薬子と仲成は上皇を擁して、旧都である平城京へ遷都することを画策した。これにより、平安京の嵯峨天皇と平城京の平城上皇という、「二所朝廷」と呼ばれる深刻な政治的分裂状態が生じることとなった。
810年、平城上皇が平安京の廃止と平城京遷都を強行に宣言すると、嵯峨天皇側は迅速に行動を起こした。坂上田村麻呂や藤原冬嗣らを動員して東国への脱出を図る上皇らを遮断し、先手を打って仲成を逮捕・射殺した。兵力不足を悟って平城京へ引き返した上皇は出家し、薬子は薬を仰いで自殺した。この一連の事件は、かつては「薬子の変」と呼ばれたが、近年では天皇と上皇の対立という側面を重視し、「平城上皇の変」と呼ぶことが一般的である。この変の結果、薬子が属した藤原式家は没落し、嵯峨天皇の側近として活躍した藤原冬嗣を輩出した藤原北家が、のちの摂関政治への道を歩み始めることとなった。