藤原仲成 (ふじわらのなかなり)
764年〜810年
【概説】
平安時代初期の貴族。藤原式家の出身で、妹の藤原薬子とともに平城上皇を擁立して復権と平城京遷都を画策した人物。嵯峨天皇側によって捕縛され、薬子の変(平城上皇の変)の勃発直後に射殺された。
平城上皇の寵愛と薬子との専横
藤原仲成は、桓武天皇の信任を得て長岡京造宮使を務めた藤原種継の長男として生まれた。延暦4年(785年)に父の種継が暗殺されるという悲劇に見舞われたが、妹の藤原薬子が皇太子(のちの平城天皇)の寵愛を得たことで、仲成もまた急速に台頭することとなる。平城天皇が即位すると、仲成は中務大輔や観察使などの要職を歴任し、薬子とともに政治の実権を握って私利を貪り、朝廷内での専横を極めた。この仲成と薬子の排他的な権力掌握は、他の有力貴族や官人層から強い反発を買うこととなった。
薬子の変と異例の処刑
大同4年(809年)、平城天皇が病のために退位し、嵯峨天皇が即位すると、仲成は上皇となった平城に従って平城京へ移った。平城京の「上皇朝廷」と平安京の「天皇朝廷」による二所朝廷の対立が深まるなか、翌大同5年(810年)9月、平城上皇は平城京への遷都を宣言した。これに対し、嵯峨天皇側は迅速な先制攻撃を仕掛け、平安京に留まっていた仲成を捕縛・監禁した。仲成は佐渡権守へ左遷されることが決定されたが、その翌日の9月11日、事態の悪化を防ぐための超法規的措置として射殺(処刑)された。この処刑を契機に、薬子の変は嵯峨天皇側の完全な勝利へと向かう。また、この仲成の処刑は、平安時代中期から保元の乱に至るまで、約350年にわたって死刑が事実上廃止される直前の、極めて異例な政治的処断であった。