在原行平 (ありわらのゆきひら)
【概説】
平安時代前期の公卿であり、高名な歌人。平城天皇の孫にあたり、臣籍降下して在原氏を名乗った人物。一族や王氏の子弟を育成するための大学別曹「奨学院」を創設し、実務官僚としても中納言に上り詰めるなど、弟の在原業平とともに在原氏の全盛期を築いた。
出自と官歴――政変を生き抜いた実務官僚
在原行平は、平城天皇の第一皇子である阿保親王の行平(次男)として生まれた。弘仁17年(826年)に臣籍降下し、在原の姓を賜る。平城天皇の系統(平城皇統)は、薬子の変(平城太上天皇の変)以後は皇位継承から遠ざけられており、行平の立場は必ずしも安泰ではなかった。さらに承和9年(842年)の承和の変により、父の阿保親王が急死するなど、青年期の行平は政治的逆風の中で過ごすこととなる。
斉衡2年(855年)頃には、何らかの理由(私罪とされる)により、播磨国の須磨に蟄居(謹慎)を余儀なくされた。この時の侘び住まいの経験は、後に行平自身が詠んだ和歌を通じて広く知られるようになり、後世の『源氏物語』における「光源氏の須磨退去」のモデルや、能楽の『松風』などの古典文学に深い影響を与えることとなった。その後は赦免されて中央政界に復帰し、文徳・清和・陽成・光孝・宇多の5代の天皇に仕え、最終的には中納言(従三位)にまで昇進した。弟の業平が「色好み」の情熱的な歌人として伝説化されたのに対し、行平は民政や外交の場(太宰帥など)でも活躍した、極めて有能な実務官僚であった。
大学別曹「奨学院」の創設と一族の教育
行平の最大の歴史的業績の一つが、元慶5年(881年)に創設した大学別曹である奨学院(しょうがくいん)の設置である。大学別曹とは、平安貴族が大学寮に学ぶ自一族の子弟のために設けた寄宿舎であり、実質的な私立教育機関の役割を果たした。
当時、政界では藤原氏が急速に台頭し、他氏族の排斥を進めていた。藤原氏はすでに大学別曹として勧学院を設け、一族の結束と優秀な官僚育成に努めていた。これに対抗すべく、行平は在原氏だけでなく、同じく皇族から臣籍降下した源氏や平氏などの王氏(広く皇親系氏族)の子弟を広く受け入れる教育施設として奨学院を組織した。行平は京都の右京に位置する自邸(長寿院)を学舎として提供し、墾田を寄附して運営資金に充てた。この試みは、藤原氏一強に抵抗し、皇親政治の伝統を受け継ぐ実務官僚を維持・育成しようとする、行平の強い危機感の現れであったといえる。奨学院は後に、和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、菅原氏の文章院(菅家廊下)などと並び、平安時代の学問の府として重きをなした。
文化人としての足跡と「百人一首」の和歌
政治・教育面での功績に留まらず、行平は平安前期を代表する歌人でもあった。勅撰和歌集である『古今和歌集』に11首が入集しているほか、のちの『小倉百人一首』に採られた以下の和歌は特に有名である。
「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」
この歌は、因幡守(現在の鳥取県付近の国司)として赴任する際に、都に残る人々との別れを惜しんで詠んだものである。「因幡(いなば)」と「往なば(去ってしまったら)」、「松(まつ)」と「待つ」をかけた精緻な掛詞が用いられており、哀愁の中にも相手への深い配慮と再会への強い意志が込められている。このように、行平の和歌は高い技術と知的な構成力を持ち、弟・業平の情熱的な作風とはまた異なる、優雅で洗練された平安貴族の美意識を体現している。