空海
【概説】
平安時代初期の僧であり、日本における真言宗の開祖。804年に遣唐使として唐に渡って密教の奥義を究め、帰国後は高野山や東寺を拠点に真言密教を体系化した。唐で王羲之などの書を学んだことから書家としても非常に優れており、「弘法にも筆の誤り」の諺を生むなど、嵯峨天皇・橘逸勢とともに三筆の一人に数えられている。
真言密教の探求と遣唐使としての入唐
空海は讃岐国(現在の香川県)の豪族・佐伯氏の出身である。当初は官僚を志して大学寮で儒教などを学んだが、やがて既存の学問に飽き足らなくなり、山林修行に身を投じた。この時期の思想的変遷は、儒教・道教・仏教を比較して仏教の優位性を説いた著作『三教指帰(さんごうしいき)』に記されている。
その後、本格的な密教を学ぶために、804年(延暦23年)に遣唐使の留学僧(るがくそう)として唐に渡った。同じ船団には、後に天台宗の開祖となる最澄も還学生(げんがくしょう)として乗船していた。長安に赴いた空海は、青龍寺の恵果(けいか)から正統な密教の奥義を短期間で授かり、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の法号を与えられた。本来20年の留学期間が義務付けられていたが、空海はわずか2年で膨大な経典や曼荼羅、法具を携えて帰国を果たした。
密教の体系化と最澄との交流・決別
帰国した空海がもたらした最新の純粋密教(純密)は、当時の平安京の貴族社会に大きな衝撃を与えた。唐で天台教学を中心に学んでいた最澄も、自らの密教に対する知識の不足を補うため、空海に経典の借覧を申し入れ、礼を尽くして教えを請うた。
しかし、密教の真髄は文字(経典)ではなく師から弟子への伝法によってのみ伝わると考える空海と、経典の理法を重んじる最澄との間には、次第に思想的な溝が生じた。最終的に、『理趣釈経(りしゅしゃっきょう)』の借覧を空海が拒絶したことや、最澄の愛弟子であった泰範が空海のもとに留まったことなどが決定打となり、両者は決別することとなる。その後、空海は『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』や『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』などを著し、真言密教の教義を高度に体系化していった。
「三筆」としての評価と朝廷との結びつき
空海は宗教家としてのみならず、類まれな文化人としても歴史に名を残している。唐滞在中に王羲之などの書風を深く学び、独自の力強く流麗な書体を確立した。その書の腕前は「弘法にも筆の誤り」という諺が生まれるほど傑出しており、最澄に宛てた書状である『風信帖(ふうしんじょう)』などは日本書道史の最高傑作の一つとされる。後代には、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに平安時代初期の能書家である三筆の一人に数えられている。
空海の多彩な才能と深い学識は、嵯峨天皇から多大な信任を得る要因となった。816年(弘仁7年)には天皇から紀伊国(和歌山県)の高野山(金剛峯寺)を下賜されて真言密教の根本道場を開創し、823年(弘仁14年)には平安京内の東寺(教王護国寺)を給預された。これにより、真言宗は国家鎮護の宗教として朝廷内で確固たる地位を築いたのである。
社会・教育事業と後世への影響
空海の活動は宗教や芸術の枠に留まらず、社会福祉や教育事業にも及んだ。故郷の讃岐国では、アーチ型ダムの技術を用いて農業用溜池である満濃池(まんのういけ)の修築工事を指揮し、民衆の生活安定に貢献した。また、828年(天長5年)には平安京に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立し、貴族だけでなく庶民にも広く学問の門戸を開いた。これは日本初の私立の庶民教育機関として高く評価されている。
835年(承和2年)に高野山で入定(死去)した後、921年(延喜21年)に醍醐天皇から弘法大師(こうぼうだいし)の諡号を贈られた。空海の教えと事績は後世に多大な影響を与え、「お大師様」として現在に至るまで広く日本人の信仰と畏敬を集め続けている。